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精神分析とジャズの類似性の研究 〜「即興が生起する場」の考察〜

序章 | 第1章 問題と目的 | 第2章 先行研究 | 第3章 仮説 | 第4章 研究法 | 第5章 結果の考察
第6章 総合的考察 | 第7章 今後の課題 | 終章 | 引用・参考文献・謝辞 |
資料

資料:ジャズミュージシャンからのアンケート全回答



グループI:枠組と即興について

Q1:即興演奏と「枠組」(即興の対象になる曲やブルースなどの形式)の関係をどうとらえていますか?
(1)ジャズのスタイルにもよるのですが、完全なフリーの即興以外においてはその即興演奏をまとめる役目をはたししていると思います。聴衆との合意(ある曲を演奏しているとの意味で)、ミュージシャン同士の合意(予見できる展開)など。
(2)「枠」とは楽器の存在に他ならない。その枠をすこしでも枠でなくする為に、なんとか楽器のレベルまで自分を高めて、楽器と親しくなろうとしている。
(3)枠組はアドリブのルールの一つ。
(4)「枠組み」を即興演奏の拠り所となるもの、と定義すると、ジャズの場合コード進行とリズム形式だけそこにあればよい、ということになる。情緒的にはもちろん曲の趣旨(歌詞を含めて)、メロディの雰囲気、曲の構成の意味合い、など即興に影響を与えるものは多い。しかし、特に即興演奏に特別の意味を持つモダンジャズ(ビ・バップ)の場合は、枠組みはきわめて最小限に抑えられる。即興の進歩はその枠組みの最小化と興奮を論理的に理由づけた逸脱の手法の開発にある。その結果、伝統に縛られない新たな表現の獲得をめざす(それは容易ではない)。また、枠組みの最小化は共演者とのコラボレーションを容易にする、という理由もある。逸脱の方法は時代や個人の考え方によって様々な方法が試された。コード進行の細分化、コード概念からモード概念への拡張、代理コード、コード進行の拡大解釈、また、リズムの細分化と再構成、ポリリズム、さらに情緒的なアプローチとして和声からの開放、リズムからの解放、とフリージャズへ表現を拡張していく。しかしながら聴衆音楽としてのモダンジャズの場合、また多くの演奏家がジャズを演奏する場合、その時代に聴衆から正当と思われる(快適と思われる)枠組みを維持することを余儀なくされる。したがって即興演奏に必要な「枠組み」とは「コード進行とリズム形式」である。
(5)「枠組」が無いとまとめきれない。どれだけ崩してもここだけは共通認識を持つ、という演者間のコンセンサスが無いと必要な時に呼吸を合わせづらい。フリーのセッションだと枠組がかなり緩いという印象なのですが、自由すぎても逆に展開がしづらいし、ぐだぐだになってしまう気がします。
(6)すみません。質問の意図が理解できないのでこたえられません。
(7)枠組みがあることで、創造への導入になっています。パターン化したコード進行やフレーズがあることで容易に創造の世界に入っていける。
(8)どんな素材でも対象になり得る。ただ、モチーフは重要。
(9)枠組と云う物を「コード進行」となぞるなら、そこにある音楽全てが「枠組」となりうる。(Verse以外で)
一問目から難解過ぎます。ややこしく考えないから即興になる。
(10)以前「枠組」そのものが存在しないフリージャズめいたものをやっていたことがありましたが、通常の場合は「枠組」の範囲で演奏を行っています。「枠組」そのものを若干変える場合もありますが、一旦作った枠組を越えて即興演奏を行うことは余りしていません。
(11)枠組は歴史に培われてできたもの。即興は今演奏している瞬間を大事にしたもの。
(12)自分の中では「枠組」が何なのかよくわかりませんが、自分が演奏するときの軸足はその曲の元のメロディーのように思います。ドラムソロ中でも曲のメロディーを頭の中で鳴らしていることが多いです。ですが、ブルースの場合は元のメロディーではなく、コード進行が鳴っている気がします。逆にそれなしに、単に12小節ドラムソロをやれといわれると、ブルースのドラムソロとは違うものになる気がします。
(13)枠組は即興のよりどころ、形を与えるものと考えています。
(14)「枠組み」=「色」(=major→より明るい、minor→より暗い,などの抽象的なイメージ・感覚)と捉え、その「色」に応じた音を出力・調和させていく。


Q2:即興演奏のなかで、フレーズやリズム、コード進行(あるいはモード)等が湧き出てくる源は、何だと思われますか?
(1)僕の場合は予想されるコード進行(和音の流れ)でしょうか。

(2)過去に聴いた音楽、或いは作曲した音楽から。
(3)経験。(4)源は自分自身。何かを発信する自分の積極的動機。フレーズ、リズム、ハーモニーなどは音楽の要素なので別々ではなくトータルでバランスをとっていると思う。
(5)記憶、過去の演奏体験の積み重ね、曲の展開に抱いている主観的イメージ、それとその時演奏している他メンバーの演奏する音楽とのギャップもアドリブを生み出す源泉かもしれません。
(6)即興で表現されるフレーズの源泉とは、多くの場合過去のジャズ演奏家のフレーズの適切な使用であり、そのセレクションである。その選ばれ方は演奏者の練習量、先人たちの演奏を学習することによる蓄積、記憶力、センス、個性といったものが大きな影響力を持つが、それ以外に共演者から触発されることも多い。ピアニストのハーモニー感覚やドラマーのリズムメイクにフレーズは大きく左右される。斬新なハーモニーの提示で過去の蓄積以上のフレーズが出てくる場合もある。まったくオリジナルなフレーズ開発に手を貸してくれる共演者がいる可能性もある。反面、共演者に恵まれない場合は能力の半分も発揮できないかもしれない。(その理由は、脳内物質が出ない、保守的で退屈である、ソリストを聞いていない、危なっかしくてソリストがコーラスをリードしなくてはならない・・その場合コーダルなソロとなる。等色々である)さらに加えて聴衆のノリ、音響の状態、等も左右する。結局はこれらの集合体であると思われる。しかし、ごくまれに、神の啓示が下るときもある。(一生に1回程度)
(7)演奏者として、常に新しい刺激を求めていること。曲に対して事前の静的ではなくリアルタイムの動的な構成を考えています。
(8)経験と知識、センスが伴う、フィーリング!!
(9)私にとっての「源」は頭だと思います。演奏している音楽について、常に全体のアンサンブルを聴きながら最も「カッコ良く」する為にどうしたらいいかを考えながらやっています。そこで、自分の中にあるリズムやフレーズのストックの中からその場で使うのに最も適したものを選んで演奏しているという感じです。説明すればそういうことになりますが、いちいち意識してこのような行動をしている訳ではありません。蛇足ながら、私の言う「頭」とは「感情」との対比における「頭」で、「理性」と言う意味です。
(10)過去の音楽経験がベースだと思いますが共演者へのリスペクトなどもないとはいえないと思います。
(11)湧き出てくるということはなくて、過去に反復して身についたことの組み合わせが連続的に起こっているだけに思えます。
(12)それまでのコピーしたもの、聞いたもの、音楽以外の経験も含まれているかもしれません。
(13)繰り返し練習して感覚や意識の奥に染み付けたフレーズやリズム、あるいは非常に印象に残った、他のアーティストのライブやCDの演奏中に出てきたフレーズ、リズムそういったものがストックされてきた無意識下ではないか、と思う。


Q3:即興演奏が、「枠組」を超えて広がりそうになった経験がありますか?
(1) 広がることはある程度許されているので、意識的にすることもあります。
(2)あります。ジャズ喫茶等のライヴではフリーになること多々あり。
(3)あります。
(5)単純に力量不足で、というのはしょっちゅうですが。普通なら使わないコードや音が飛び出て予想外にいい感じになったのを上手い演者がひろってくれてうまく展開した、とかいうこともあったかと。(質問の趣旨とずれていたらごめんなさい)
(6)ある。
(7)ネガテイブなケースで枠からはずれそうになる場合は、自分が選択したフレーズと枠組みのコード進行や小節のサイズが合致しない場合である。ポジテイブにはずれる場合…こういうケースがあるかどうかわからない。なぜならジャズは多くの場合、枠組みの中で枠組みを利用しながら、どれだけ枠組みから遠いところへ行ってもどってくるかを競うゲームだからである。(マイルス・デイビス「インベルリン」の枯葉で、ハンコックを先頭に全員の演奏がどんどん枠組みを外れていくシーンがある。聴衆はどこへ行ってしまうのか、とスリル満点であるが、演奏者たちは枠組みの中で逸脱を行っている冷静な視点を維持している。その証拠に、曲が進行する時間通りに次のコーラスのあたまがやってくる。全員が復帰する。)枠組みのない自由なジヤズ表現をめざすなら、最初から予定調和的に枠組みを設けないか、枠組みではなくモチーフと考え、それを発展させていく、という取り決めを演奏者間でとりかわさなければならない。それはバンドコンセプトであり、新たなルールの創造である。それ以外の場合、一人枠組みを超えてしまった演奏者に、共演者がついてこれるケースは相当まれである。か、その演奏者は2度と呼ばれない。
(4)僕の場合は「形式」を超えるという意識よりもハーモニーの流れの中で思いのほか素敵なメロディが紡げたときに枠を超えた広がりを感じる事がある
(8)ある。
(9)Solo演奏にのみあるし、可能。
(10)Q1で書きましたが、80年代に美術方面でひとつのムーブメントとなった「パフォーマンス」(ひとつのジャンルの名前です)を美術家と組んでやっていたことがありました。その時は決め事が一切ないものをやっていましたので、正確には「枠組を越える」ということではありませんでしたが・・・。そんな経験もあったので、パーカッションのフリーソロ、つまりリズムをフリーにしてしまうソロに関しては抵抗が全くなく、タマにですが普通のソロが回って来た時に一旦リズムを外してしまう時があります。
一緒に演奏しているメンバーは、どうやって戻すつもりかと怪訝な顔をしならが私のソロを聞いています。
(11)ほんの数回ですがありました。
(12)ある瞬間に、「枠組」の中にいるとも思わないし、「枠組」を超えてるという感触もありません。日常の演奏において、最初に「枠組がある」という意識はないように思います。
(13)枠を越えて、また別の枠に行っているだけかもしれませんが、そのようなことはよく起こると思います。
(14)セッションが盛り上がって、一体化して全体が「アウト」していった時


Q4:ブルースのアドリブとそれ以外の曲のアドリブに違いがあると思われますか?
(1)アドリブをするという行為に違いがあるとは思いません
(2)ありません。
(3)特にない。ブルースフレーズと西洋近代和声のぶつかり合いはブルースでなくてもあらゆるジャズ曲で起こる。
(4)ブルースは曲が違っても(コードが違ってさえ)どこか似た曲だという感覚があります。当然といえば当然なのですが…。それ以外の曲は似た進行の曲とかを聴いてもやはり全く別の曲という印象を受けることが多い気がします。アドリブもそういったことを反映して変わっていると思います。
(5)私は区別していません。
(6)枠組みのパターンの1つ。根本的には違いはないと思います。
(7)Bluesほど難しいと感じる時はあります。ただ曲の持つ意味やイメージにのっとって演奏しているうち、それがBluesと融合してしまうという経験もあります。
(8)「枠組」の内容で当然違います。
(9)質問の意味が正確に分かりませんが、違いはないと思います。
(10)わかりません。
(11)もちろんありますが、枯葉とそれ以外の曲のアドリブも、同じように違います。ブルースだけ違い方が違うというようなことはないと思います。
(12)ないと思います。
(13)違いはあると思うが、それはどの音楽にも言えることと思う。


Q5:フリージャズについてどうお考えですか?
(1)フリーにジャズという言葉が被っていること自体自己撞着。ジャズという言葉を音楽の演奏形式ととらえても、楽曲形式と捉えてもジャズという言葉が付いているとしたら、完全なフリーとはならないでしょう。
(2)良い音楽と思います。
(3)生きている息吹みたいな凄みを感じます。(4)ジャズという音楽の持つコスモポリタニズムとしての特質が生んだ当然の結果。フリージャズの旗手と言われたオーネットコールマンの演奏に接したマイルスが「どーでもいいけど、あいつはもうちょっと楽器を練習した方がいい」と言ったのが笑える。そう言ったマイルス自信もその後フリー的な演奏に突入してゆくが、フリーという形態を聴衆の美意識に共鳴させるか否かも結局はその演奏者の美的価値観と修練の結実であり、ケース・バイ・ケース・・と考えている。
(5)正直あまり聴いたことがないのでコメントしづらいのですが、「よくわからない」というのが本音です。合うフリージャズを聴いたことがないだけかもしれません。
(6)私はフリージャズを演奏しますが、それについてなにか考えをもつことはありません。
(7)かなりしんどいと思います。創造に大変なパワーがいるから
(8)ジャズに初めて出会った頃は理解不能なもの。今は作品によって興奮するものもあるが、まだよくわからない。
(9)レベルによります。
(10)自分がやっていたことでもあり、演奏することにさしたる抵抗はありませんが、頭でいろいろ考えだすと分からなくなることがあります。例えば、観て(聞いて)いる人達にどのようなメッセージを送りたいのか、とか、一緒にやっているメンバーとどこで繋がっているのか、そのメンバーと一緒にやる必然性があるのか等々です。結論としては聞いた方が気に入って下されば又聞きに来るでしょうし、嫌なら二度と来なだろうということで自分を納得させ、思考を停止しました。それだったら普通のジャズを演奏しているのと同じ考え方になるので。
(11)それ以外のジャズと特に変わりなくとらえている。なぜならフリージャズは枠組みのない音楽、ということはなく、やはり独自の枠組みがある。多くの聴衆にとってコード進行や調性、一定で流れるリズムなどが枠組みにない場合、それを完全な自由と捉えてしまう。しかし、フリージャズにもテーマやモチーフがあったり、音色や一定でないかもしれないがコントロールされたリズム、調性はなくとも美しいフレーズらによって構成されている場合が多い。もちろん、美しいだけではなく、あらゆる情緒を取り込むことができるのがフリージャズである。怒り、悲しみ、痛み、落胆、攻撃など色々な人間の感情や行動を演奏にこめることができる。また、現代音楽のようにストイックに調性とイディオムを廃したソロを自分に課す学派もある。しかし物理的なルールにそって即興するよりも、より審美的な世界の中で即興できる、という点ではより自由であり、人間的である、と言える。
(12)非常に面白いです。フリージャズは誤解されている面が多いです。むかしアメリカ在住時に、フリージャズを習っている人とバンドをやっていました。ちゃんと「枠組」、「形式」、「手法」といえるようなものがあるんですよ。そういうのがまったくないものはただのノイズです。そういうのがフリージャズとしてもっともらしく紹介された時代もありましたので、かわいそうな音楽です。フリージャズをうまくやるのはものすごく難しいです。ですが、ヘタにやるのでもやるほうは面白いです。聴く人に面白さが伝わるほどのフリージャズはそうそうできるものではありません。
(13)フリージャズはとても高度なテクニックを要求されると思います。そういうものがないと、単にデタラメになってしまう。また形式上のフリージャズというのでなければ、ジャズはすべてフリーであるべきだと思います。それは枠組があってもフリーだということです。
(14)聴く分に正直よく理解できない部分が多い。しかしその性質上、即興性が大いに有意なので、「偶然の産物」的な面白さや美しさが追求され、また衝動性や直感性が表出されやすいものと思う。


Q6:この項目(グループI)について自由なご意見をお聞かせください。
(1)うまく行く時というのは、頭の中でコードもテーマも小節数も骨格となるイメージができあがっていて、どうすれば自分の演奏が全体の演奏の中でうまく響くかに集中していられる時、という気がします。これって、うまくコミュニケーションがとれている、と結果的には見えるかもしれないのですが、ある意味最も自己中心的になれているからこそとも考えられるし、自己超越(没我)的になっているのかもしれません。
(2)説明の(たとえば「枯葉」のように)とありますが、意味が解りません。
(3)難しくてよく分かりません。「自由連想法は・・・、枠組があることが重要な意味を持つ」と書かれておられますが、究極の「自由」とは、おっしゃっている「枠組」そのものからの解放なのかも知れませんし・・・。
(4)アドリブには形から離れる不安と命の奔放さが背中合わせになっているような印象があります。
(5)音楽・芸術・イメージについて文面上での説明は難しい・・・。(自分の語彙の無さもあるが)



グループII:内在化・コミュニケーション

Q7:即興演奏ができるようになるまでに、どのような努力をされましたか?
(1)別になにか特別なことはありませんでした。
(2)他人の演奏のコピー、を繰り返し演奏する。
(3)-(1)レコードをよく聴いた。あたまの中にフレーズが記憶、蓄積された。
(2)楽器に始めて触ったとき、頭の中に蓄積されたフレーズを演奏可能にした。
(3)レコードと一緒に楽器を演奏した。
(4)聞き取れないフレーズはトランスクレイブし、譜面化し、繰り返し奏した。
(5)様々な共演者と演奏する機会を持った
(6)共演者と演奏する中で(1)~(4)で蓄積したフレーズを繰り返しテストした。
(4)学生時代から、会社に勤めている時も、いつも頭でジャズを歌っていた。通学や通勤の時も歩いているときはそのリズムでフレーズを口ずさんでいた。努力は特にしたことがない。
(5)スケールとコードを何度も弾いたり聴いたりは当然してましたが、結局は継続的にセッションに出て身体で覚えていた、という感じでしょうか。
(6)具体的にこれといった努力はあまりしていません。即興演奏はやったりやらなかったりするものであり、努力してできるようになったり、できるようになったと判断するような状態のあることではないと考えています。
(7)・楽器への習熟 ・コピーによる即興演奏の方法習得
  ・コピー分析による音楽理論習得
(8)ジャズの即興演奏においてという事なら、まず、その音使い(サウンド)、リズム(クラシックと異)を、身体に馴染ます。レコードのコピー、一緒に演奏等。
(9)人の演奏を「聞き、受け入れる」努力。当然の事ながら理論も学ぶ。
(10)努力かどうかは別として、とにかくよく聞きました。それから自分が気になるフレーズなどはできるようになるまで練習することになります。
(11)できません
(12)人まねを延々と練習しました。つぎに、そうやって覚えたものを一拍とか半拍ずらしてやったらどうなるかとか、実験を重ねました。
(13)まだ即興ができません。
(14)とにかく即興に慣れるように、セッションを繰り返し行い練習した。手探りと、一緒に演奏をしている先輩らのプレイを見よう見まねしていた。


Q8:下記のM.J.ベイダーの意見(太字部分)をどう思われますか?
『ジャズ・ミュージシャンはそれについてあらかじめ考えている様子もなく、またいかなる意識的な音楽理論の枠組みを差し挟むこともなく即興演奏をすることができる。なぜなら彼らはコードとキイと非常に複雑なハーモニーの抽象的な関係を理解しており、あるレベルにおいて自発的にそれを当然のことのように足場にし、応答し、即興演奏ができるからだ』
(1)そう思います。
(2)その通りと思う。
(3)このような意見は理想というより幻想に近いと思います。この域に達したジャズミュージシャンは20人といないでしょう。
(4)そうしたことが自発的に上手くできる人が上手い演者と言われるのかと思います。出るべきところは出て、引くべきは引く。中立性を守るというのに近いのでしょうか?
(5)なかなかよく言い得ているとおもいます。
(6)私は音楽理論の枠組みを意識して演奏してます。抽象的な関係を理解していることは、なんらか理論も意識していることだと思います。
(7)プレイヤーによっては理論に乗っとり、ハメコミ型もいるのでは…?
(8)ベイダーは分析家であって、音楽家ではない。つまりアドリブが出来るまでのプロセスは考えていない様に受け取れる。
(9)基本的にそのとおりだと思います。ただ、ミュージシャンによって「理解」の仕方には差があると思います。大変直感的に理解している人と、理論をベースに「頭」の部分で理解している人がいるのではないでしょうか。
いずれにせよプロの場合はどちらかが100%ということはなく、この比率の問題だとは思いますが。譜面が読めなかったり、理論が分からなかったりしても一流になっているミュージシャンはけっこういますよね。こういう人はとても「耳がいい」んでしょう。
(10)本物の才能がある人ならなし得るのかなと感じます
(11)観念的すぎてあまり意味を感じません。私の場合実際にはあらかじめ準備したものをアドリブ中に演奏することもあるし、数小節先を「考え」ながら弾いているときもあるし、さっき出してしまった音とか、他の人が出した音をなぞったり反芻しながら別の音を出しているときもあるし、いま何も考えてないぞと意識されるような状態で音を出すときも、音楽理論的にこうだからこの音を出しとく、というときもあります。曲が進むに従ってこのような状態が入れ替わり立ち代わり発生している感じがします。すべては過去に習得した複数の材料ややり方の組み合わせと、それらのバランスではないかと思います。
(12)これはジャズに対するステレオタイプな見方だと思います。準備してあらゆることに反応しようと神経をとがらせているのじゃないでしょうか、いろいろな感情がうずまいているとかえって無表情になるようなものだと思います。
(13)的を得ていると思う。「どうして即興が出来るの?」と聞かれると、自分ではうまく説明できないが、おおよそ説明の通りのように思う。


Q9:複数のミュージシャンがそれぞれ主体的に演奏することによって時間的なズレが生じた時、それをどのように体験されていますか?(例えば、刺激的、気持ちいい、遊ぶ、まったく意識しない等、どんなことでも結構です)
(1)時間的なズレはある意味でスイング感の源だと思います。それを拡大して表現すると誰にでも分かる ズレとなりますが、それは質問事項にあるように、「刺激的」、「キモチイイ」その他、プラスのフィーリングに転化するでしょう。
(2)まちがっている人、or レベルの初歩の人に合わせる。
(3)リズムと構成が明確なジャズの場合は、誰かが主体的なタイムをキープしていれば修正可能である。ただし、演奏者が互いに修正しあう、音楽として合わせる耳と態度を持っていないとズレは修正できない。
(4)当然うまく行っている、行くだろうと思えるとすごく気持ちいいですが、てんぱっていたりするとすごく不安になります。フロントの立場からは基本的に前者になることが多く、リズムを担当している場合は後者になることが多いです。個人内変数として楽器の経験多寡も大きいかとは思いますが。
(5)質問の意図がよく理解できません。
(6)刺激として意識しています。メンバー全員が共有しているバンド全体の時間軸と、自分が今だす時間軸の関係が刺激となり創造への源になっています。
(7)時間的なズレを感じないから「気持ちいい」(上手い、下手が伴う)
(8)崖っ淵を歩いているようなスリリングな緊張感があります。それが気持ちよいかどうかはその時によります。不安でしょうがない時もあります。
(9)人間の強さみたいなものを感じます
(10)ずれることは発展のはじまる契機で、演奏の面白みのかなり大きな部分です。いっぽうで、崩壊(明らかに失敗に聞こえる状態や、極端な場合演奏の中断)、につながる契機でもあります。最終的にどうなるかは自分だけでなく、共演者がどの程度のズレまでを「遊び」としてコントロール下におけるかをどれだけ正確に把握理解できるか、に大きく依存します。この把握は、その人がその瞬間出している音からも行い得るものですが、長く共演している相手だとお互い同士の知識や信頼関係がプラスに働くので、一層スムースになります。いずれにせよ、聴く能力がきわめて重要です。当然自分の音にも神経を払いつつ、共演者の気持ちと同化して「聴く」からさらに一歩進んで、共演者の瞬間瞬間の気持ちを「なぞる」といえるほどになれば、優秀な演奏家になれるのではないかと思います。「クライアント中心療法」に似てますね。
(11)私はタイムがキープできずにリズムをはずすことがしょっちゅうなので、ズレはほとほとイヤになります。一流のミュージシャンでは、このようなズレはほとんど感じないのではないでしょうか。
(12)理解した上での意図的な「あとノリ」と感じられるものに関しては程よい緊張感が生まれて気持ちいいと感じるが、それぞれが自分の演奏に没頭しすぎて生じたズレに関しては、前に進んでいるのに後ろに進んでいるような、何とも言いがたい気持ち悪さを感じる


Q10:共演者のリズムやフレージングに「つられそうになる」、「ひきずられそうになる」といった経験がありますか? そんな時、どうされますか?
(1)素直に従い、それからまた発展させる。
(2)ある。それはそれで良いと思う。
(3)その演奏が意図的であるか、意図的でないかによる。共演者の意図的でない演奏にひきづられそうになり、全体の演奏に破綻がきたされることが予測できた場合、正しい方向性に矯正するよう努力するか、演奏を離脱する。意図的である場合は冷静さを保ちながらも、喜んでひきづられる。ジャズの演奏はいつの瞬間も後者を望んでいると思われる。
(4)「つられない」と言うのは自分のリズムがしっかりしていればつられる事はあまりない。しかし「あえて」つられる事によって全体のサウンドがまとまるなら、そちらをとることもある。誰でも多少のフレキシビリティを持って演奏している。あまり「自分だけが正しい」と音楽で主張して誇示するのは「大人げない」とおもう。会話と同じ。
(5)フレーズは、思い切ってつられてみて掛け合いを楽しむことが多いです。相手がそれ以上乗ってこなければ元に戻るだけ。リズムをつられたな、と自覚できたなら、押しには巻き、巻きには押しみたいになんとか戻そうとしますが、結局はなんとかお茶をにごしつつベースを冷静に聴けるようになるのを待つことになりがちです。リズム面は特に修行不足でしたし…。
(6)ある。修正しようという意識がはたらきそのようにしようとするができるだけ最小限にする。互いに影響しあいながら演奏しているのであるがままにしておくことも重要と考えている。
(7)あります。場合によって色々な対応をします。・一時的に音を出すのをやめる・相手に合せる ・自分のタイムに合わさせる
(8)多々あるでしょう。それが生きたものかそうでないものかによって先が違います。そして自分のレベルによっても大きく違います。
(9)有ります。「愛」をもって受け入れます。
(10)「つられそうになる」、「ひきずられそうになる」と言うと何だか悪いことのようですが、共演しているミュージシャンが出した音にInspireされるということはしばしばあります。先ずリズムの話。ご質問の主旨が、もし、「メンバー各自のリズムがずれてしまった時どうするのか」とい
う現実的なことなのであれば、私は通常自分が正しいと思った方に与します。ピアノトリオで演奏することが多いのですが、必ず2対1になるので、残ったひとりは合わせて来ることが多いです。自分がひとりだったら当然ふたりに合わせます。後はメンバーの性格の問題ですが、絶対に人に合わせそうもないメンバーの場合はその人に合わせてあげます。人格円満なので。いずれにせよ、誰が悪くてリズムがずれてしまったかは後でテープでも聴いてみない限り分からず、どっちが正しかったかは永遠に分かりません。相手が「格上」だったら、多分こっちが間違えたんだろうと納得します。次にフレージングの話。これは積極的につられる(Inspireされる)ことが結構あります。
(11)あります。自分はあわせるようにします。
(12)Q9とまったく同様です。ピアニストにつられてわからなくなったドラマーを、ベーシストが救ったりという場面はよくあります。演奏は相互理解と救いあいです。つられる、わからなくなる、ずれる、というような、一見よくないとされる状況も、うまく処理すれば面白い展開になるわけですから、自分のコントロールできる範囲内にある限りにおいては、安定している状況とそんなに違いはありません。先ほどは「共演者が音を出すときの気持ちをなぞる」でしたが、さらに進み、「共演者、聴衆が瞬間瞬間に各々や全体の音をどう聴いている」までをも同化して聴き取り察する能力が高ければ、優れたプレイヤーといえます。
(13)ひきずられることにしょっちゅうありますし、自分が他人をひきずってしまうこともしょっちゅうあります。気づけば相手に合わせます。気づかないときはたいてい私の方が他人をひきずりこんでいます。
(14)自己主張の強い、インパクトのある、特に自分と並行関係にあるフロントや、リズム隊のリズムやフレージングには引きずられやすい。それが間や場面に即したものであれば、あえてつられるというかリフレーミングする。しかし適切でない、ズレや歪みを生じる恐れがあると考えられる場合、出来るだけ聴かないようにしたり、自分の演奏に集中する。


Q11:ジャズの演奏においては、その時、その場でのコミュニケーションが重要と思われます。演奏の際のコミュニケーションに関して苦労された経験がありましたら、お聞かせください。
(1)やはりそれぞれの演奏スタイルを探り当てるまでにはそれなりの食い違いのようなものが有るかもしれません。全くスタイルが違うとやはり難しいですね。
(2)ありません。ただ良くメンバーの音を聴き、何を主張しているか、解るよう努力しています。
(3)伝達言語をいかにあわせるか、ということがもっとも大事。基礎的には演奏の知識、楽曲に対する知識、基本的な進行の解釈、リズムに対する知識と経験などが最低条件。この言語に共通性があれば、目配せ、身振り手振り、もしくは音そのものでコミュニケートできる。さらに、より高度なコミュニケーションということになると、ひとつの音に対するインスピレーションやひらめき、リズムの共振による肉体と頭脳の分離、肉体的制約からの脱却、意味性からの脱却、共同幻想的な増幅効果がコミュニケーションの場を支配することがある。演奏者どうしの間には霊感に近いものが現れる。その場合のコミュニケーション体験とは日常人間社会では起こりえないものである。おそらくは時間芸術と宗教、性行為の中だけにしか起こりえないものである。
(4)自分はコミュニケーションをじっくり工夫するというレベルまで自分は到達できていなかったような気がします。ソロをとっていてある程度は熱くならなくてはいけないけど、でも周りの音が聴けるぐらい冷静になって、コミュニケーションを図ろうという苦労はいつもしていました。
(5)演奏相手が私の演奏を聴いていないもしくは聴く余裕がない状態にあるとき。私が演奏相手の演奏を聴いていないもしくは聴く余裕がない状態にあるとき。こまります。もはやそうなってしまうとどうしようもありません。私はまだまだレベルの低いミュージシャンなので自分の演奏環境のなかではたまに生じる問題です。
(6)バンド全体で動的な構成がとれない時。創造へのパワーが出なくなり、やる気がそがれる。時間に対する感性が違うメンバーがいる時などに起こります。
(7)どんなに会話がなくても演奏上とてもコミュニケーションがとれ結果、すばらしい演奏になることはよくあります。でも閉ざされた関係はダメです。そして馴れ合いの仲もなかなか良い音は生まれません。そして一番大切なのは音を出す際の自分の精神状態をどうもっていくのか。対人、対自分
(8)Q10と同じ→「「愛」をもって受け入れます}
(9)コミュニケーションに苦労したこと、ありますよ。うまく説明できないんですが、要するにそのミュージシャンと本質的なリズム感が違うんです。だから演奏していてもどこかシックリ来ない。そういう場合はたいがい相手もそう思ってる。大人ですから口にしませんけどね。大体初めて一緒に演奏した場合にこういうことが起こります。いろいろあってその後数回一緒にやるチャンスがありましたが、毎回心地よくないんですよ。当然のことながらやらないようになります。解決方法がないのですから。これはコミュニケーション以前の問題ですね、よく考えると。
(10)終わって打ち上げの時の楽しさを考えるようにします
(11)ヘタクソな人とのあいだにはコミュニケーションが成立しません。つらくなるときがありますね。ですが、つらい、もうやだ、というオーラを出してしまうと、与えられた情況の中でベストな演奏にまとめる努力をしようとする姿勢が、バンド全体から失われます。ですから、音を出している場がどういうものか(ちゃんとした金額もらってるかとか、たんなるバンド遊びの場だとか)によっては、ヘタクソな人でもよくよく聴いて、とにかく救おうとします。逆に、自分よりうまい人は、自分との共演で同じことを感じることがあると思います。そう思われていると感じて、つらい、もうやだ、のオーラも同様にまずいです。こちらのほうが、自分の出す音をどうするかに対して余裕がありませんので、つらさは大きいです。
(12)全くリズムが合わない人もいます。これはもうやりすごすしかありません。私の方が力量不足ということもあります。これらは全て言葉ではなく音でやりとりされてほぼ一瞬でわかります。
(13)即興演奏の経験の(自分よりも)浅い奏者と演奏する際、ロストしたりセッション全体が空中分解しないように自分が「誘導役」をつとめる場合が多いが、その場合自分が自由な即興演奏に没頭しきれない。
また、応答や呼応を求めたり、関わりを期待する場面(バースやチェイスなど)において、自分の演奏に集中しすぎたり、周囲の空気を読まない(演奏や動きに反応が薄い)奏者とのセッションでは、くるしいというかもどかしいというか、音楽の広がりの限界を感じてしまう。


Q12:この項目(グループII)について自由なご意見をお聞かせください。
(1) よい演奏になっていると感じることはありますが、それを音楽以外の別
の啓示というように感じたことはありません。
(2)うーん。この質問だけ考えあぐねています。ふと今おもったのは、ロックやクラシックだと演壇が高くて、ジャズだと観客席と同じ高さのスポットで演奏する所が多いな、ということです。ロックの特に若者ロックの場合は演者も観客も若くて心理的距離は近いような気もするけど、事務所のバリアとかもあって距離が遠ざけられている感じはします。そうしないと大変なんだろうけど。演壇上からパフォーマンスで観客に近づいてギターソロ、とかってなんかちょっと上から見下ろしているように見えなくもない…。ジャズだと小さいライブハウスとかなら演者と客が普通に話せたりすると聴きますが、身近さの質が違う気がします。ロックバンドのファンは主観的にすごく近づいていっても一方的になりがちですよね。…なんかあいだの空間的な距離の話しではなくて恐縮です。
(3)耳の半分はユニット全体の音、残りの半分は自分の出している音を聞いています。それが習慣になっています。



グループIII:あいだの空間

Q13:演奏が佳境に入ったとき、ミュージシャンとミュージシャンのあいだに、別のなにかが現れたように感じる、といった経験をされたことがありますか?もしありましたら、お聞かせください。
(1)同じ方向へ進もうとしていることを感じます。自然に。佳境はエゴかもしれません。
(2)それは非常に複雑で説明は難しい。僕の場合は、ピアノの反応によって鼓舞されることが多い。ピアノ・プレイヤーが僕の演奏をよく聴いていてくれればこちらの出した単音に何倍もの音を共鳴させて美しさを増してくれる。リズムとかスイング感においてはベースの役割が大きいとおもう。ドラムスは聴衆にとってはどうかわからないが、僕にとっては装飾音にすぎない。
(3)質問が難解になってきましたね(笑)。自分達はこんなに息の合う演奏できたんだ、と思う時もたまにありますよね。それが別の何かが現れたのかはわからないですが…。
(4)ない。
(5)まったく打ち合わせなしに、あるイメージをつくるために、同じ目的に向かって集中している状態は経験します。決して同じ考え方でいるわけではありませんが。
(6)「オドロキ」や「ぐうぜん」、ハプニング!!
(7)「別のなにか」とはまた難しいご質問です。逆に聞きたいです、「別のなにかって何ですか?」みたいに。演奏が佳境に入ってくると、緊張感、集中、エネルギーがほとばしり出るような感じ(何か他のことのようですが・・・)などが感じられますが、これは別に「別のなにか」でもなく、曲の頭から続いている脈絡の中で、それが膨らんで来るようなイメージです。「別」ではなく、延長上にある感覚というべきですかね・・・。
そうじゃない人もいるのかなあ・・・。一度演奏中にベースの音が消えちゃったので、ベースの方を見たら楽器におおいかぶさるようにして、ピアノを聞いてました。寝てた訳じゃないんです。「ピアノって何てすごい
んだろう」と訳の分からないことをブツブツ言ってました。彼は休憩時間に葉っぱを吸ってブッ飛んでたんですが(海外での経験で、その国では当時違法行為ではありませんでした)。これって「別のなにか」ですかねえ・・・。
(8)好きな人がヴォーカルの時に間奏で目があった。時間が止まったように感じた。
(9)Q9 - Q10の「救いあい」が、横で聞いている限りではほとんどわからないレベルの高い精度で行われている、かつ、「救いあい」が、失敗に近づく状態から引き戻すというような大雑把で低いレベルでなく、共演者の出している音がよりよくきこえるようにしてあげる、というレベルで「高めあい」として行われている状態がそれなのかなと思います。その場の時空間を支配してるような気分になります。
(10)自分の演奏では感じたことはないのですが、一流のミュージシャンを聴いているときに目の前に建築物が立ち上がるような感覚におそわれたことがあります。確かに素晴らしい演奏は「見える」ものだと思います。
(11)演奏のはじめと比べ、メンバー全体の一体感を覚えるように感じる。若干ではあるが、お互いの反応のパターンがある程度予測でき、アクションや「仕掛け」の割合が増えるように思う。


Q14:ジャズにおける「あいだの空間」とはどのようなものか、思いつくままで結構ですのでお聞かせください。
(1)「ドビュシーは音楽とは音と音のあいだの空間であると感じていた」という引用ではいかにもドビュシーの音数の少なさを説明しているようにきこえますが、それは全ての音楽家が実践していることだとおもいます。音を出す、音を切る, 音をのばす、音の連鎖をつくる。これ全て間、言い換えれば音と音とのあいだの空間のことだと思います。
(2)音の無い時間、聴こえない時間が音楽だと思います。
(3)演奏者どうしのあいだ、演奏者と聴衆のあいだに加えて物理的空間というあいだもある。
いずれの場合も、その特性、性質と規模によって大きく構築される世界が異なる。
演奏者どうしの特性、性質についてはそれぞれのバックボーンや能力、目指す世界観などによって共振度合いがまったく違う。そのあいだが数少ない共通項を探りあい、演奏を成立させる程度の空間の時もあれば、神がかった共振を呼び、奇跡的な演奏を誘発することもある。少人数の即興主体の編成の場合と、大人数による編曲された演奏単位との場合とでも、その共振度合いは異なる。当然ながら、人数が多くなればなるだけ共振は起こりにくい。ノイズ成分がそれを阻害する。しかしながら、演奏者の精神状態がシナージー効果をひとたび引き起こすと、バンド全体がノイズ成分を消しあい、ポジテイブな方向へドライブするケースがあり、その経験こそがバンド経験の醍醐味といわれるものだ。
聴衆との関係性ももちろん重要で、聴衆が演奏者がめざす方向性に寛容であるかどうかが演奏に大きな影響を及ぼす。聴衆におもねり、平和なライブ空間を作る方向に流れるムキもあるが、それはジャズ表現にふさわしくない。革新的な表現を提示し、徐所に聴衆がその価値に気付き始める、というプロセスがほしいし、それは短いほど演奏者にとってはハッピーである。死後100年を経て気付かれる、というのは先見性はすばらしいが、音楽家にとっては不幸である・・
物理的空間は意外に演奏に大きな影響を及ぼす。もちろん音響空間としての意味合いも大きいが、寺院で演奏した場合と教会で演奏した場合の違い、海で演奏した場合と山で演奏した場合も大きく異なる。そこにあるあいだとは、気の流れや磁場、空気成分のようなものかもしれない。自覚はないが。
(4)空間のない音楽などあり得ない。空間が自分の発する音の存在を意味付けする。空間の演出は修練の上の最後の課題だろう。しかし、これはあまりに微妙で説明はできない。
(5)ソロイストのメインフレーズに例えばピアノが合いの手を入れる時、それがぴったりであったり若干のズレが心地よかったり、相手と適度な空間があるから成立するものでしょうかね。それを受けとる演者たち自身や聴衆によっても印象が変わるのも「あいだの空間」効果でしょうか。
(6)間の空間はすべての本質であると考えます(ジャズもしくは音楽という限られたカテゴリーの範囲のことではなく)。
(7)ジャズの基本的な奏法を理解した間で、考えてることは違っていても、ある音の空間を作るために、瞬間的に目的に向かってお互い集中できること。
(8)一般的にはスムーズに事が運ぶ様を「テンポ」と言うが、音楽においてはあくまでも曲の速さ。その速さにより、「あいだの空間」も生じる。
(9)やはり一番最初に思いつくのは音と音のあいだ、つまり無音のところですかね。それと自分が歌うようになって、演奏していた時と比べてお客様との「あいだ」を強く意識するようになりました。
(10)わからないです
(11)Q13と同じ。(「救いあい」が、横で聞いている限りではほとんどわからないレベルの高い精度で行われている、かつ、「救いあい」が、失敗に近づく状態から引き戻すというような大雑把で低いレベルでなく、共演者の出している音がよりよくきこえるようにしてあげる、というレベルで「高めあい」として行われている状態がそれなのかなと思います。その場の時空間を支配してるような気分になります)
(12)よくわかりません。
(13)「音」が生じていないだけで、演奏・音楽の延長のものと変わりない。しかし音がない分、緊張感や意識は高い密度で凝縮された「空間」と思う。 「音」の無いという種類の「関わり」の一種。


Q15:この項目(グループIII)について自由なご意見をお聞かせください。
(6)音楽は音と音との間の空間であるということはひとつのゆるぎない事実でありドビュッシーが感じていたなどという表現は記述としてまちがっていると考えます。ドビュッシーという本質を理解している人間の表現媒体がたまたま音楽であったということでしょう。我々ミュージシャンは頭では理解しているつもりでも、しばしば自分の出している音そのものにばかり意識がいってしまい、本質である空間に対する意識が乏しくなってしまうことが演奏中よくあります。音楽に限らず常に本質を見据えている表現者の表現行為はすばらしいとおもいます。
(9)オグデンの分析の中でドビュッシーの音の空間は、まさに、ジャズにおける「タイム」である。
(10)前項の補足になりますが、「お客さまとのあいだ」と言うよりは、お客さまの反応を意識するようになったと言うべきでしょう。ドラムやパーカッションを演奏している時よりお客さまとの距離感がぐっと縮まったという感じです。恐いです。



グループIV:多次元性・多領域性

Q16:あなたにとって「一つの表現様式にとらわれず、多彩な変奏をする」能力は、もともと身についていたものですか、それとも経験のなかで身につけられたのでしょうか?
(1)「一つの表現様式」という定義がむずかしいですね。アドリブの時に使う音、たとえばブルーノートなどはジャズ的な表現方法のひとつで、ジャズマンとインド音楽の即興奏者とは違う表現様式を持ち、それぞれその表現様式のなかで演奏していると思います。またジャズを聞きたい聴衆はジャズの様式で演奏されることを望むのではないでしょうか。たとえばそれを一つの音楽のなかで多様な様式を使い分ける、または混合することもあるでしょうが、それはまた別の様式として括られる(ワールド・ミュージックまがいとでも呼べるかも)と思います。
「変奏」と言うことからから考えれば普通は一つの表現様式に乗っ取って行われるとおもいますし、その様式があるから破綻せずに瞬時の演奏が出来ます。そしてその様式感はそれに親しんできたことによって身についていた部分もあり、勿論演奏経験によって磨かれてきたともいえます。
(2)経験の中
(3)多彩な演奏をすることが自分の表現としてよいのか悪いのか、聴衆に対してアピールするものなのか、疑問である。ソロの中で、ビバップやモードやブルージーなスタイルが混在してくることは個人の表現としてはすべての歴史を踏まえた現在の演奏家には許されている。しかし、それが果たして表現者としてよいことなのかはわからない。個人のスタイルというものはオリジナルなものであり、そうである限り、多彩という言い方はよい言い方ではない。しかしながら、ソロの中で起承転結をつける、音数を徐所に多くする、リズムの取り方にバリエーションをつける、ハーモニーやスケールの考え方をコーラスによって変えてみる、等々の変化はあって喜ばれないことはない。それらをスムーズに実現していくためには、そういう表現をしたい、という意識と経験を蓄積していくしかない。
(4)全て経験の中で身についたものと思う。
(5)経験だと思います。ジャズを始めるまでは楽譜に書いていないことを演奏するなんて考えられませんでしたし、始めてからもかなり抵抗を伴っていました。
(6)経験の中から身に着けました。
(7)なにかを造ること、人となにか違った事は、子供のころから好きでした。
(8)経験
(9)経験も重要だが、これこそ「センス」である。
(10)これは難しい質問ですね。どちらとも言えません。元々そのような資質があったかどうかは自分では分かりません。どうやったら分かるのですか?
(11)経験がほとんどと感じています
(12)多彩な演奏はできないですが、ひとつの普遍的な様式にとらわれているという感触もありません。自分のできることをやっているだけですね。そういう意味では、ヘタクソとかうまいとかには関係ないところで、「自分」という様式だけをその場にさらけだしているようなものです。
(13)残念ながらそのような能力は私にはありません。
(14)経験の中で身についたものと思う。セッションや即興演奏をした経験の数々は勿論、それ以前からの音楽的な経験も土台となっていると思う。


Q17:演奏中に「思考(無意識の思考も含む)」「知覚(聴く、見る、雰囲気を感じる)」、「情感」、「運動」をバランスよく機能させるのは難しいと思いますが、そのことと、会心の演奏のあいだに相関関係があるとお思いになりますか?
(1)演奏者自身が感じる会心の演奏ということなら関係があると思いますが、しばしばその何かのバランスを欠いていても最上、最高の演奏になりうることは今まで残されている録音からも証明されていると思います(たとえばチャーリ・パーカー、ビリー・ホリデイの演奏など)。
(2)あると思う。
(3)おおいに相関関係があると思う。よい演奏をするためにはまず冷静な精神状態を作らねばならない。それが保たれて、幅広い思考が可能になり、鋭敏な知覚を駆使することができ、演奏に情感を込めることができ、正常かつ奇跡的な運動能力の発揮が可能になる。そのために必要なことは、まず健康体でいること、神経が麻痺していないこと、きわめてポジティブな精神状態であること、などが最低条件であるが、演奏者側から言えば、まず十分練習がされていて楽器をよく鳴らすことができる状態であること、曲について十分理解している状態であること、共演者とよりよい人間関係にあること、もしくは絶対的に優位な立場にいること、などが冷静な精神状態を作るうえで有効である。これらが作られていないと、思考は「曲の進行」「共演者の機嫌」「聴衆の機嫌」「メロディの記憶」「ならない楽器への苛立ち」などで支配され、知覚は自分から半径30cmに狭まる、情感など沸きはしない、もちろん運動は絶不調ということになる。すべてのジャズミュージシャンがビル・エバンスではない。
(4)あると思います。様々な要素の調和・統合は不可欠かと。逆U字の相関とかですかね?
(5)バランスよく機能されている状態のときにこそ会心の演奏が生まれます。
(6)冷静は覚醒状態に自分をおくことだと思います。スポーツも同じだと思います。訓練された肉体と、その事に対する深い知性と、なにかを成し遂げようとする強い意思、感情が、一致した瞬間の快感を求めているのだと思います。まあレベルは到底およびませんが、「ボールが止まって見えた」と同じような冷静ではあるがスリリングな瞬間は経験したことがあります。
(7)ある。
(8)思います。
(9)意識したことはありませんが、これらがバランスよく機能した時によい演奏に繋がるのではないかと思います。逆に言えばこれらのエレメントが欠けた時に陥りそうな演奏の状態も、ある程度想像できます。
(10)あまり関係なく思います。会心の演奏になるには別に要因があるような気がします
(11)相関関係どころか、これが演奏能力の本質と思います。Q9 - 11で述べた「救いあい」が高レベルで行われ「高めあい」の境地にいたるためには、高速な知覚と反応が要求されます。耳?脳?思考?判断?筋肉?動作 というプロセスは、初心者でしか行われておらず、上級者は皆 耳?脊椎?筋肉 のようになってるように見えることが多いです。よく練習して演奏上必要な筋肉を鍛えていくのと、演奏の場数を踏んで様々な状況を処理する経験を積んでいるうちに、じょじょに「考えて反応する」という感じから、「反射する」領域に近づいていく気がします。「考えなかった」時の演奏がよいように感じるのはこれと関係がありそうです。「演奏をこうした」という感じから、「演奏してみたらこうなった」に近づきます。
(12)いい日もあれば悪い日もある、というだけの話だと思います。すべての条件がそろったから、いい演奏ができるとは思えません。
(13)大いに関係あると思う。それらとその場の空気や機運が一致した時に初めて会心の演奏が生まれると感じる。


Q18:この項目(グループIV)について、自由なご意見をお聞かせください。
(1)自分が客席にいる意識を持ち、7割は熱く、3割はクールに演奏したい、と心がけている。
(2)ハーモニーのながれの中で自分が「スイングするフレーズ」を発する快感は代えがたい快感がある。また、自分が楽器のレベルに近い状態になればなるほど、実は演奏中に「楽器」がアドリブのヒントを与えてくれるようになる。連動と言うことで言えば自分の「楽器」と「自分」が助け合いながら美しい音楽を作り上げてゆく、そんな、単なる道具を「使う」という次元を超えた「モノ」とのコミュニケーションという究極の喜びこそがジャズを演奏する楽しさともいえる。
(3)他の音楽ジャンルでも多元性・多領域性はあると思いますが、ジャズではhere and nowの影響するところがはるかに大きいというのは確かですよね。知り合いの2人組バンドで、アルトがアドリブをとって、サンプラーが適当にそれをその場で切り出してまた即興で曲に構成するというのをやっていましたが、ジャズ以外の即興音楽ではどうなるのでしょう。クラシックでも協奏曲などのカデンツをオリジナルでとっている人もいるようですが、無伴奏状態が多いですよね。ジャズのそれとはまた違う気がします。そういえば、この間テレビで小曽根真さんがモーツァルトのPf協奏曲9番をやっていて、普通のところはクラシック奏者として、カデンツはジャズピアニスト小曽根としてやっていると言っていました。ジャズのソロとどう違うのか、興味深いです。
完全に自由連想になってしまっててすみません。
(4)ビル・エバンスの修練を決して怠らないという姿勢こそ本質に対するあくなき探究心であると考えます。ただしこのことを実現するには獰猛な欲求を根拠にしたずばぬけた集中力が必要となります。これを持ち合わせているのがいわゆる一流の表現者であると考えます。
(5)Liveでの演奏とは、その空間の中でどれだけ自分の感覚が開けているかにより左右されると思う。
(6)初心者
&→(可能)→音楽的アイディア←流出をセーブ"する"、"出ベテラン来る"のは「センス」を伴うベテラン。

つまり「淀みない流出」はだれでも学べば可能。
問題はどこでその流出を止めるか!! である。



グループV:ジャズというジャンル

Q19:クラシック、ロック、ボサノヴァなど他のジャンルと比較した場合のジャズの特徴について、ご意見がありましたら、お聞かせください。(ディキシーランド、スウィング、ビバップ、モダンなど、ジャズの枠内における比較でも結構です)
(1)音楽ジャンルの比較として考えると、ポピュラー音楽としてロックやブルースなどに較べてある意味でクラシック化しているのがジャズの特徴だと思います。スイング(ルイ・アームストロング)やビ・バップ(チャーリー・パーカー)のようにジャズ自身を変化させていく大きな改革は1940年代半ば以降ないと思います。コルトレーンやマイルスなどの試みも結局そこからの発展はなかったし、そこでは新しいジャズの可能性ではなく、結局「マイルスの音楽」しか生み出せなかったようにみえます。それに較べてロック(ブルース)、ラテン(カリブ音楽、ブラジル音楽)などはそれを元にして様々に名前を変えながら変化を遂げているように見えます。つまり全般的に見ればジャズは現代のポピュラー音楽としての役目はすでに終えているのではないでしょうか。しかしクラシック(クラシックの現代音楽も含めて)と同じように愛好されてゆくと思います。
音楽のスタイル、技術などの面でそれぞれを比較して特徴をあげるのは
非常に多くの要素があり、一概にはこれこれが特徴とはいえないと思い
ます。特徴をあげるには多分本一冊分かかります。
(2)アドリブがあること。全員のメンバーがアドリブができること。
アドリブの長さが自由であること。途中でキーを変えたり、テンポやリズムを変えたり自由にできること。
(3)ジャズの特徴は、ダンス音楽であった時期もあるが、モダンジャズを中心としたほとんどのスタイルが「個人による表現」というところに重きを置いていることであろうと思う。
クラシックの時代は音楽を宗教や国家統治や戦意鼓舞のために伝達しなければならなかった際に、楽譜というメディアに頼らざるを得なかった、またPAや録音機器がなかったために、誰が演奏しても一定の効果が出るための演奏法や楽譜や作曲法が要素として必要だった。ジャズはそういった西洋音楽のステイタスを録音機器の発展とともにもっと個人のものとして再構成した。個人の悩み(ブルース)を個人に届ける、というところからスタートしたジャズは、演奏性というものを武器に進化していった。モダンジャズ以降は構成や枠組み(イディオム)をきわめてシンプルにし、それを音楽の骨格にして、後は個人の演奏能力、ゲーム性の高い即興的(刹那的)なスタイルを作り上げた。その結果、ジャズにおける楽譜というものは非常に位置づけの低いものとなり、(コースターの裏にメモ書きする程度でよい)演奏性も個人のスタイルに大きく委ねられた。この精神はロックにも引き継がれた。しかし、ジャズは一般の人がよしあしを聞き分けられるには、リズムもハーモニーも、メロディも複雑になりすぎた。音楽ビジネスとして市場は常に拡大させなければならない。1950年以降、複雑化したジャズに取って代わるようにシンプルな和音とメロディ、はっきりとしたリズムのある音楽が求められ、ロックというジャンルが台頭した。ブルースをルーツにもつ点、レコードとラジオが発明された以降の音楽としてジャズもロックも共通する要素を多く持っていたが、双方に求められたものはまったく違っていた。そのイディオム、演奏性や即興性についてもまったく違う。ジャズが個人の音楽に固執していたのに対し、ロックの目的はポピュラリティだった。その歴史がそれぞれのイディオムを決定づけた。多くのジャズ演奏家はロックを演奏することができる。しかし、ロック演奏家はジャズを演奏することができない。
(4)他の音楽ジャンル、及び初期のジャズと、即興の要素がメインとなるビバップ以降の演奏スタイルで演奏される(ボサノバも含む)モダン・ジャズは決定的な違いがある。これは20世紀に生れたモダン・ソサエティにおけるコスモポリタニズムのひとつの典型であり、それ以外の音楽ジャンルや、他の芸術形態には見ることの出来ないクローズドな言語が明確に確立している。この音楽を通じて人種、言語、宗教、思想を超えたコミュニケーションが可能となり、音楽を芸術の域に高めたとともに、当時のフランスの実存主義をはじめとする「自己の確立」という反社会的なムーブメントに大いに貢献した。
(5)ジャズだと、曲さえ知っていれば突然参加も可能、という所がありますよね。他のジャンルでもできないことはないけれど、やってどうするという話になってしまう気がしますし。演者ごとの個性もわかりやすいので、聴衆側としても入り込みやすいかもしれません。ジャズのセッションをのんびりやっているところがあれば(実際ジャズ喫茶なんかだとあるようだし)、演者と聴衆が入れ替わって楽しめるのも魅力かと。クラシック喫茶とか、夜な夜な競演を繰り広げるクラシックプレイヤー達とかって聴かないですよね。
(6)音楽が時間の芸術だと思います。瞬間的にダイナミック(動的)な構成が創造できることが、リアルタイムに楽器を演奏する人のモチベーションになっていると思います。それは前にも述べたように、テキストを再現するクラシック奏者でも演奏毎に目指している事だと私は思いますし、それが音楽の面白さ、奥行き、遊びの部分ではないでしょうか。ビバップ・モダン・フリージャズは、この演奏者にとってのモチベーション=快感になる部分を、ジャズという奏法を使って徹底的に洗練・強調した音楽だと思います。訓練された肉体と、磨かれた知性と、目的に対する欲望=高い感情が瞬間的に一致して創造されるスリリングな空間を共有できる特権があるからこそ、ジャズミュージシャンは、身をささげてしまうのだと思います。
(7)例えクラシックであれ、他の音楽のイディオムが加わった演奏の奥ぶかさは、より良い何かがある。演奏家で言えば、レナード・バーンスタイン(指揮者、作曲家、ウェストサイド物語他)やアンドレ・プレヴィン
(指揮者、ジャズピアニスト)等。ホルスト(作曲家)、ムソルグスキー(作曲家)、そしてジョージ・ガーシュウィン。
(8)自由度が他の音楽に比べて高いということでしょうかね。ただ、ジャズの中にもフルバンドやコーラスのように、かなり譜面できっちり「枠組」を作っているジャンル、つまり相当合わせる練習が必要な、クラシックに近いものもありますね。フュージョンだってそうですよね。逆に自由度が高いのはジャズの中でもインストのモダンジャズぐらいなのかも知れません。クラシックと比較した場合、大きな違いは、作曲者(作詞者)の扱いです。ジャズでは曲は「素材」でしかなく、それを料理するコックが腕を見せるタイプの音楽ですから、作曲者・作詞者はほとんどどうでもいい扱いになります。
(9)モダンは全然わかりませんが、ジャズは独特の落ち着きがあります。スウィングやコードの進行が「人間まっすぐじゃ生きられない」というような深み、また逆説的ですが「まっすぐじゃないから人間すばらしい」と感じることがあります。こんな感じでよろしいですか
(10)頻出させていますように、わたしは音楽の演奏は「救いあい」であり、それがそのまま熟練したとき「高めあい」になるものだと思っています。独奏の音楽でさえ、さっき出してしまった自分の音を、次に出す音で救う作業です。ジャズは、救いあいの対象になる「予期せぬ出来事」の事象の幅がものすごく大きいというだけで、演奏を「救いあい」としてみる限り、他の音楽と変わるところはないと思います。クラシックのように、事象の幅が狭い中での高精度の救いあいが前提であり醍醐味であるような音楽の演奏では、より高速高精度な反応が必要で、多くの訓練と高い演奏技術を要求される理由なのではないかと考えます。
(11)まず即興が大部分を占めるということが最大の特徴だと思いますが、即興性の強い音楽は他にもありますから、ジャズの特徴といったら、そのスウィング感、同じ曲を何十年にもわたって変奏すること。・・・・・・あんまり素直じゃないというか、ひねくれた演奏をする、わざとむずかしくしたり、ユーモアと悲しみがまざったような感じ、曲の解釈の仕方の自由度の高さとか、きわめて個人的な音楽というか、だんだんわからなくなってまいりました。
(12)ジャズは即興性の割合が非常に高いという点で、他の音楽と決定的に違うものと思う。よって、その場の空気、今・その時・その瞬間に生じる偶然性の高さと、プレイヤー間あるいはプレイヤーと観客との間における関わりの強さが、他の音楽との大きな違いではないだろうか。


Q20:この項目(グループV)について自由なご意見をお聞かせください。
(1)なぜならば、このようなJazzを演奏する人間同士のコミュニケーションは、喜怒哀楽をあらわす人類共通の「顔の表情」や「指」の仕草といったコミュニケーションを感情的・精神的・美的価値観的により高めたひとつの形であり、そこに存在する「楽器」や「発声」といった自己表現の技術の修練の先にある「自由」を手にする一生の課題ともなり得る大きな「意義」を秘めた表現形態とも言えると思う。
(2)クラシックを聴いていて、演者によってこんなに曲の雰囲気が変わるのか、と思うことがあります。クラシックの人たちは、構築度の高い音楽の中でどれほど自分の色が出せるか、そういう「奥行き」「遊び」を追求してるとも言えるでしょうか。アプローチが違うだけで同じことを追求しているのかも、といったら少し乱暴でしょうか。
(3)ジャズというジャンルの中だけでもそれまでに形成された枠をどんどん壊し、時代と共に進化していってると思います。
(4)ジャズ=自由
 自由=そう近づくための努力が伴う。



グループVI:最後に

Q21:「ジャズを演奏したい」というモチベーションのもとになっているのは、何かをお聞かせください。
(1)やはりジャズの様式で演奏されている音楽が好きだからとしかいいようがありません。
(2)幸せな時にピアノを弾きたい。ピアノを弾く為に生まれてきたのかもしれない。
(3)楽器を自由に演奏する爽快さ、自分を表現できるすぐれたフォーマット、脳内に心地よいハーモニー、柔軟性と奥行きがあり、うきうきするリズム、すぐれた共演者と音楽を作り上げる喜び、神が降り、能力の限界が拡大される瞬間、先人達が築き上げた素敵な世界を共有できる楽しみ、聴衆との一体感、などなどのためにジャズをやっています。
(4)演奏のモチベーションとなっているのは、「演奏する楽しさ」に他ならないが、とにかく自分の音楽を少しでも理想に近い形まで高めることによって、この音楽の可能性を探りたい。
(5)アドリブをかっこよく!という自己顕示欲もあるだろうし、他の演者とうまく調和させてみたいというのもあるでしょう。セッションなんかでは演奏に臨む緊張感自体も刺激的だし、失敗しても次がんばろーというようないい意味での気軽さで臨めるというのもあるでしょうか。
(6)とてもプロにはおよびませんが、肉体・知性・感情を駆使してものを創造する行為を、ジャズ仕組みを理解した仲間同士で共有してできること
・それが時間軸で瞬間ごとに創られるスリリングな快感であること
(7)音で伝えたい、表現したい。その上でジャズというのはしゃべる言葉もリズムも自分の自由。もちろんその為のテクニックを身につけることは必要ですが。自らの音で全てを語った時、そこでLiveを共有した人、全ての人たちでなくても「いい演奏によって明日からまた、元気になる力をもらった」そう言う一人がいるなら、それが又自分のエネルギーにもなる。
(8)"愛している"から!
(9)好きだからとしか言いようがありませんねえ。
(10)単におもしろいからです。他には、若い男は多くがそうだとおもいますが、始めたころはジャズが演奏できれば女性にもてると固く信じていて、それが練習の糧でした。
(11)音楽そのものが楽しいものだと思いますし、自分なりに演奏していいのだということになればますます楽しい。ところが「自分なり」というものがくせもので、実は「自分なり」のものをつくれる人こそが音楽家であり、
音楽そのものを作っている人たちなのだ、ということが最近わかってきました。ジャズは自由で即興的な音楽だ、と思っておりましたが、実は大変厳しくて厳密なものだと思います。……あんまり考えすぎるとジャズがジャズでなくなるような気もします。以上、参考になりませんが研究がんばってください。
(12)自分にとって表現欲求、精神の浄化(カタルシス)を最も得やすい、感情の解放が可能であるのが演奏することである。自己の開放と他者との関わり、所属感が(一時的にではあるが)得られるのがセッションであると思う。


Q22:全般的なご感想をお聞かせください。
(1)一人でジャズを聴いている時、弾いている時、とても幸福を感じます。マイフーリッシュハートを聴きながら天国へ行きたい……
(2)考えるほどに難しいテーマ、ですよね。回答していても抽象的なことを言語化するのに苦労したり、言語化したらよくわからにことを書いていたり、あまりお役に立ててなかったらごめんなさい。そういえば、こんなブログがありました、http://blogs.yahoo.co.jp/mitanix_jazzsax_bono ジャズと心理学らしいです。昔見つけたのをふと思い出して。別にこのテーマに関係あるわけでは全然ないのですが。
 この修論研究が精神分析の中でどう位置づけられるのか、これから楽しみです。是非がんばってください。
(3)(Q19~Q22の一括回答)私は常に音楽を演奏しています。私の中で音楽を演奏するときにジャズやクラシック、ロック、ポップスなどという区別はまったくありません。
音楽は音と音との空間であるので、決められた音を弾くスタイルのジャンルか、アドリブのように決められていない音を弾くスタイルのジャンルかを意識することに意味を感じません。どちらにしろ本質は、演奏者によって弾かれた音そのものではなくその間の空間なのですから。
余談になりますが、私は今までほとんど音楽教育というものを受けずに好きなように音楽を演奏し続けてまいりました。ですから他の音楽家たちのように教育課程で習得する体系的な理論や知識がいちじるしく欠如していると思われます。しかしそのことが演奏上致命的になっていることがほとんどなく思えるので不便も感じません。
また最近より確信を深めるようになったことは、自分には音楽的な才能がない、ということです。これにはいろいろと自分にしかわからない今までの人生経験による根拠があるのですが、べつにこのことで悲観することもまったくありません。
逆に、表現行為に才能や教育はまったく必要ないという極端な考えすらもつにいたりました。
また同時に優れた表現行為が生まれるためには類まれなる才能と一流の教育があることはより望ましいとも考えます。
私は才能もなく教育も満足に受けなくても自分の選択意識のみで演奏するという表現行為にすがり続けている自分を常にゲーム感覚で観察して楽しんでおります。
自分がこれからどこにいこうとしているのかまったくわかりませんが、他のミュウジシャンとは体質がいろいろと異なるのではないかと思います。
以上、何かの参考にしていただければ幸いです。
(4)定義が難しくそれこそ日によって答えが変わってしまうような気がします。特に私のような人間にとっては……
(5)たかが「Jazz」!!されど「Jazz」!!
「おわりに…」に書かれている内容が一番てきせつな内容かと思います。
つまり「~に当てはまる」「~に当てはまらない」は今後のJazz(音楽)での課題だと感じます。
(6)「おわりに」にも書いておられますが、ジャズを一括りにして語るのもちょっと無理があるのかも知れませんね。よく分かりませんが、「臨床心理学」に役に立ちそうなジャズは、インプロヴィゼーションの度合いが多い、モダンジャズやフリージャズなのかも知れません。
(7)役に立たないことばかり書いたかと思いますが、すみません私自身が楽しんでしまいました。今回は面白い機会をおあたえいただき感謝します。ありがとうございました。
(8)音楽的なことやイメージなどの非常に抽象的なものを文面で表現するのは難しい。

序章 | 第1章 問題と目的 | 第2章 先行研究 | 第3章 仮説 | 第4章 研究法 | 第5章 結果の考察
第6章 総合的考察 | 第7章 今後の課題 | 終章 | 引用・参考文献・謝辞 |
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