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第1章 問題と目的
立脚点
はじめに立脚点から述べる。本研究は臨床心理学の立場で行なわれるものであり、音楽論や芸術論、あるいは音楽療法についての研究ではない。この論文では、未発表の臨床事例を提示することも、ユニークな心の問題を浮き彫りにすることもないが、精神分析的心理療法とジャズの演奏という「時間とともに進行し、展開してゆく現場」に注目し、全体の流れや、その形式、そこで生起することを研究対象としており、臨床心理学の枠組から外れるものではないと考える。
なぜ精神分析とジャズなのか
本研究で精神分析とジャズを取り上げる理由についてであるが、それは、両者における即興improvisationの位置づけに、非常に意味のある類似性が見出せると考えるからである。心理療法や音楽の演奏のように、それぞれの「場」において止めることも戻すこともできない時間の流れとともに行なわれることには、すべて予想外の何かが起こる可能性があり、即興improvisation性があると言える。しかし、精神分析とジャズにおいては、即興improvisationは特別な意味をもつ。
このことについて論じる前に、即興improvisationという言葉について見解を示す必要があるだろう。Webster英英辞典(第三版)によればimprovisationには「それに沿うべく、あらかじめ準備された予定、方略、考え無しに辿られる過程」という意味がある。この即興improvisationが精神分析とどのようにつながるかということであるが、Lichtenstein,D.(1993)は「自由連想法という精神分析の仕事が忠実に行われれば、ある種の言語的即興が生起するはずである。…分析家の仕事は、とりとめのない話が即興的にできるような場をつくりだすことにある」(P.233)と述べている。すなわち自由連想法が機能しているとき、分析の場には即興improvisationが生起する、ということである。本研究では、自由連想法と即興improvisationの関係について、Lichtenstein, D.のこの見解を採用する。なお本論文中で自由連想という用語を用いる際は、とくに注釈がない場合は精神分析の自由連想法と精神分析的心理療法において行われる自由連想の両方を表すということをここにお断りしておきたい。
また本論文においては、即興は上記のimprovisationの意味を含むという前提で論述を進めたい。
自由連想法は、精神分析の基本規則である。Freud, S.(1931)はZweig, S.への手紙のなかに「自由連想という技法は、精神分析が産みだした最も重要な成果であり、精神分析の他の成果への方法論上の鍵である、と多くの人にみなされている」と書いた。Kris,A.O.(1982)は、方法としての自由連想への関わりが、精神分析の中心課題であると言い、Bollas,C.(1999)は、自由連想は精神分析のもっとも明確な特徴であり、唯一の目標であった、と述べている。
一方でジャズについて言えば、アドリブやスキャットと呼ばれる即興は、演奏の方法であり、ビ・バップやモダンジャズの演奏家にとっては、優れた即興演奏をすることが目標となった。そしてLichtenstein,D.(1993)は「ジャズを価値ある芸術様式として位置づけた最大の特徴はやはり即興演奏であろう」(p.232)と述べている。
これはLichtenstein,D.(1993)が指摘したことであるが、精神分析とジャズは、実践の場において、即興が生起するような方法を用いることが、最大の特徴であり、自発性といきいきとした実感を伴った真の意味での即興がなされることが目標になるという点で類似しているのである。
精神分析とジャズは、外来の学問・文化でありながら日本に根づいており、関心を持つ人も多い。しかしそれぞれの領域の核心である即興について、精神分析とジャズの双方のデータをもって類似性を検討する研究は、検索した限りでは行われていない。筆者はこれを将来性のある研究と考え、とりあげることにした。以上が精神分析とジャズをテーマに選んだ理由である。
問題と目的
次に本研究の問題設定であるが、課題は、精神分析とジャズの実践の「場」で起きていることの類似性が、ただ似ているというだけではなく、そこから類推が生まれ、相互利用へとつながる可能性をもつものであるということを明らかにすることにある。問題に取り組むにあたっては、先行研究および精神分析の文献の知見をもとに仮説を生成し、その仮説をジャズ・ミュージシャンから収集した意見をもとに考察するという方法をとる。
データは質的データであり、論述する対象も概念的なものが多いため、証拠をもって仮説の正否を検定することはできないが、文献に記された精神分析家・精神分析的心理療法家の意見と、ジャズ・ミュージシャンの意見を、信頼性と妥当性に常に留意しながら考察することで、一定の説得力がある論述が可能と考える。
論述が適正になされ、「分析の場」と「ジャズ・ライヴの場」において、即興が生起する形式、およびそこで体験されることに共通性があることが明らかになれば、結果として、ジャズ体験(演奏、鑑賞)にこれまでとは異なる視点が加わるであろうし、精神分析を理解し、説明するための一助としてジャズを通じての類推というアプローチを提示することができるだろう。この二つが、本研究の直接的な目的である。
また、先に自由連想と即興演奏が、精神分析とジャズのそれぞれの目指すものであるという意見を紹介したが、では目標が達成された場合なにがもたらされるのかという問いが発せられるかもしれない。この問いには数多くの答えがあるだろう。本研究では研究の視点と枠組のなかで、この問いについて考え、収集したデータに基づいて考察を試みたい。このことは、今後も継続して探求してゆかなければならない課題であると考える。
意義
それでは、この目的で研究を行うことに、どのような意義があるのだろうか。筆者は、情報的価値は高いと考える。精神分析とジャズというそれぞれに専門性が高い別個の領域間の相互認識を高め、相互理解を深める上で有益であるだけでなく、2つの領域に関係しない人々に対しても、新たな見解を提示することができるからである。また精神分析の領域においては、本研究の知見は、自由連想法を考察する際のデータとして、情報的価値をもつのではないかと考える。
精神分析事典(岩崎学術出版社)には「自由連想法は精神分析療法の基本的な方法である。」と書かれている。しかし『自由連想(1982)』の著者Kris, A.O.は「多くの分析家は、自由連想法を、精神分析的患者理解をつくり出すための'材料'収集源のひとつとしか見ていない」(p.3)と言う。自由連想を忠実に行なうことと解釈することは精神分析が抱えるアンビバレンスの1つであり、Bollas, C.(1999)は、自由連想の目標と、素材を理解しようとする分析家の願望の間に不可避的に緊張が生じる理由について「自由連想が(Laplancheが精神分析の‘反解釈学'と名づけて賞賛しているところにおいて)意味を解き放つのに対して、解釈は意味を創造してそれを結びつけるからである」(p.1(14)と述べている。本研究と関連づけて言えば、論述が説得力をもってなされた場合、ジャズの即興演奏は、この意味の開放と意味の連結のアンビバレンスについて、1つのメタファーになり得るのではないかと考える。
臨床的価値については、現段階では未知数である。しかし「即興が生起する場」の形式と体験に類似性があるという認識は、そこで体験されることが心におよぼす影響にも類似性があるのではないか、という類推を生みだすもとになる。この可能性を提示することも、本研究の意義の1つではないかと考える。
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