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終章 終わりに
この論文では、病理や症状に触れることなく精神分析について論述し、音楽を使わず言語だけでジャズについて考察した。研究の過程で、これでは、肝心な部分が抜け落ちているのではないか、と考えたこともあった。しかし、即興という一点においてすら、一つの論文ではとうてい書き尽くせないほど豊富な素材があることを知り、精神分析とジャズという領域の奥行きの深さに気づかされた。
「神なきユダヤ人」(Gay,P.1993,p.109)の中に次のような一節がある。
「人類が発見すべきものは‘幻想の慰めなしに生きるすべ'である。むろんこの熱望はまさにフロイトが、精神分析による人間の啓蒙プログラムの中心に据えたものだ」
そして「Thinking in Jazz」(Berliner.1994,p.485)においてRed Rodney(トランペット奏者)はこう語っている。
「ジャズは週1,2回夜9時から1時まで演奏すれば事足りるという仕事じゃない。ジャズは生き方そのものだ。それは演奏を続け、努力を重ね、聴くことと学ぶことをずっと続けて円熟してゆくということだ。20代で円熟の域に達する者もいれば30代で到達する者もいる。私が‘ここぞ'という時に安心感と喜びをもって演奏できるようになったのは50代になってからだ。その時には、もうこれでいいとは思わなかったが、ずっとそうありたいと思っていた方向に、ようやく足を踏み入れることができたという満足感はあった」
精神分析は幻想の慰めなしに生きるすべであり、ジャズは生き方そのものである、と言えるのは、即興と自発的対話を、自己の探究の方法として修得した人に限られるであろう。それは誰にでもできることではない。
しかし、上記の言葉を読むと、精神分析とジャズという営みが、「即興が生起する場」の限られた時間の範囲ではなく、人生と同じ時間の流れの中で語られる意味を持っていることがわかる。このことは、記憶されてよいのではないかと考える。
<了>
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