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第6章 総合的考察
本章では、仮説を総合的に検討したうえで、まとめの考察を行う。
前章の考察においては、各表について意見を傾向別に分類することと、一部の意見を掘り下げることを行なった。データは、一つ一つと対話し、考え、参考文献を参照しながら解釈を試みた。データは専門家としての意見であり、単独の意見であっても説得力を持つと考える。
仮説Iの検討
【仮説I】精神分析的心理療法とモダンジャズの演奏の場において、自発的即興が生起し、展開し、収束する時、枠組・構造は以下の機能を果たしている。
(3) 守る:(枠組・構造には、権威とは分離したところで秩序とルールを提供する機能を持つ。すなわち即興によって権威とされるものが分解し、断片化しても枠組は崩壊しない、という安心感のよりどころになる)
(4) 葛藤を引き受ける:(即興のダイナミズムは権威との葛藤を回避して枠組・構造に向けられる場合もあれば、権威の束縛を脱してのちに枠組・構造に向けられることもある)
(5) まとめる:(枠組・構造は権威と分離しているので、権威が支配力を失っても枠組・構造は保持され、分解、断片化されたものを統合する。時間的つながりも保たれる)
データによれば、即興演奏において枠組を認識しているケースが多かった。そして即興の枠組は、「場」において多重的に存在していることが推察された。演奏する曲や形式の枠組は、共有される枠組であり、この枠組は「ルール」、「拠り所」、「それがないとまとめきれない」といった意見があり、「守る」「まとめる」機能が認識されていることが考察された(表1)。
仮説の前提である、枠組・構造、権威、無意識の領域にある即興の源の三者関係については、ジャズ・ミュージシャンには、枠組と権威は一体ではないという共通の認識があることが考察された(表3)。即興の源については、専門性に裏付けられた内的枠組という意見が多かったが(表2)、ジャズを演奏したいというモチベーションについては、すべてのデータにおいて「快」をともなう刺激、身体感覚、感情が示されており(表3)、それが潜在的動因であることが推察された。
枠組と即興のダイナミズムとの葛藤は(表5)で考察され、それが多くの場合、ポジティブに捉えられていることがわかった。
共有する枠組をもたないフリージャズにおいては、演奏者どうし、あるいは演奏者と聴衆のつながりが保たれにくく、伝えることのために多大なエネルギーを要するという意見があり、伝統的モダンジャズにおける共有の枠組がジャズの演奏にとって「ほどよい」枠組であることが考察された(表6)。また権威と分離した枠組であるブルースには、「守る」機能と、過去とのつながりも含めた「まとめる」機能があり、ミュージシャンにとってしばしば権威よりも枠組の方が存在感が大きく感じられるということが考察された(表8)。
以上のことから、仮説Iで提示した即興の枠組の(1)「守る」、(2)「葛藤を引き受ける」、(3)「まとめる」の機能が、いずれもジャズ・ミュージシャンに認識されていることがわかった。また権威と枠組が一体化していないという認識も認められた。(2)の括弧内の説明にある、「即興のダイナミズムは権威との葛藤を回避して枠組・構造にむけられる」という点については、データによる裏付けは得られなかった。ブルース形式の曲の即興が、その曲に対する即興ではなく、ブルースの即興になるという例が、これに該当するのではないかと推察する。
仮説IIの検討
【仮説II】精神分析的心理療法とモダンジャズの演奏の場において自発的即興が生起し、即時的かつ的確な言語的・非言語的応答がなされている時、以下のことが体験される。
(3) 自己と他者との境界を保ちつつ、多様なコミュニケーション・スタイルを体験する。
(4) あいだの空間が意味を持ち、そのことによって連続性が体験される。
(1)については、「自己の体験」、「他者との境界の認識」、「コミュニケーションの体験」の三段階に分けて考察した。
自己の体験については、専門性の内在化が「思考」「知覚」「情感」「身体運動」の多領域を通じてなされること、そしてその内的枠組には、多次元性の認識が含まれていることが考察され(表9)、即興演奏は自らが築いてきた意識・無意識の疎通がある内的枠組と、そこに蓄積された経験に信をおいてなされることが推察された(表10)。また「思考」「知覚」「情感」「運動」がバランスよく機能することと会心の演奏との間には相関関係があるという意見も多く、そのことは意識のコントロールを弱め、冷静な精神状態を保ち、真実性や実感を体験することと関係しているのではないかと考えられた(表11)。このほかにも複数の意見の考察から即興演奏において、内的枠組に蓄積されたものの中から、場に合わせて瞬時に何かを選び取るには、感覚を可能性に対して研ぎ澄ませておく必要があり、そのためには多大な集中力を要するという知見が得られた(表12)。
表9~表12の考察により、即興をする者は自立した自己を有していると考えられる。
他者との境界の認識については、即興演奏中、共演者との間に時間的ズレを感じたときの体験をたずねたところ、状況によって気持よいと感じる時と気持悪いと感じる時がある、という意見が複数あり、「スリリング」「発展の契機」などポジティブな捉え方をするケースも多かった。ズレを楽しむことができるのは、演奏者の中に時間軸が多重的に存在していることが推察された(表13)。一方で、即興演奏中に共演者につられそうになったり、ひきずられそうになったりした場合は、その都度自主的な対応をするが、「面白い」と感じることが多いことがわかった。この場合、対応は瞬時に行なわれていると推察されることから、意識的にも無意識的にも、自己と他者の違いが区別されていると考えられる(表14)。
コミュニケーションの体験については、音を通じて、あるいは空気を読むなど、言語を用いないさまざまな回路で双方向的やりとりがなされていることが考察された。自発的即興をする者は、自己の無意識との回路が開かれているので、意識・無意識の両次元をつかってコミュニケーションができると考えられる。(表(14)。
II-(2)のあいだの空間については、即興演奏中、共演者とのあいだに何かが現れるという体験の有無をたずねたところ、「ある」という意見が多かった。このことは自己への集中と、無意識のレベルでの他者とのつながりが同時に進行することによって体験されるのではないかと考えられる(表16)。「ジャズにおけるあいだの空間とは」の問いには、音と音のあいだの空間についての回答が多く、ほとんどが「それがすべての本質である」など「あいだの空間」を非常に重要視する意見であった。「音と音のあいだの空間」の意味とは、多次元的なつながり、すなわち奥行きのあるつながりをもたらし、連続性が体験されることにあるのではないかと考えられる。(表17)。
以上のことから、仮説IIの(1)と(2)で提示されている内容と同一もしくは類似した体験が、ジャズ・ミュージシャンによって実際に体験もしくは認識されていることがわかった。
まとめの考察
【問題と目的の考察】 本研究を行う直接的な目的は、ジャズ体験(演奏、鑑賞)にこれまでとは異なる視点を加えること、そして精神分析を理解し、説明するための一助としてジャズを通じての類推というアプローチを提示することにあった。そして課題は、精神分析とジャズの実践の「場」で起きていることが、そこから類推が生まれ、相互利用へとつながる可能性をもつものであるということを明らかにすることにあった。課題と目的は達成されたであろうか。
相互利用については未知であるが、類推を可能にするような類似性は見出せたのではないかと考える。筆者は臨床家ではなく学生なので、以下の論述は文献と調査データをもとにした考察となる。
その類似性とは、自由連想と即興演奏の類似性である。調査データによれば、ジャズ・ミュージシャンは例外なく演奏を自己に快感をもたらすものと捉えている。このことから精神分析的心理療法における自由連想も、それ自体が快をもたらすものと類推できる。小此木(1990,p.3)は「自由連想法が可能になるにつれて、連想、空想、回想の一人だけの世界に入り、精神内界にゆっくり遊ぶことができる」と述べ、他にも多くの分析家が、自由連想が快をもたらす体験であることを語っているが、一方で、4ページで述べたように「多くの分析家は自由連想法を、精神分析的患者理解をつくり出すための‘材料'収集源のひとつとしか見ていない」(Kris)という見解もあり、実際に体験していない人には、自由連想が快をもたらすということは理解されにくいのではないかと考える。しかしジャズの即興演奏を通じての類推ということであれば、よりわかりやすい。
「思考」「知覚」「情感」「身体運動」の多領域がバランスよく機能することが会心の演奏、すなわち真実性や実感の体験につながるということも、自由連想における体験を類推する手がかりになるのではないかと考える。
自由連想と即興演奏において、もう一つ重要と考えられる共通点は間主観(体)的体験である。間主観(体)性は『精神分析事典』によれば、「主観(体)とは単独に構築され機能するものではなく、たがいの交錯のうちに共同的に構築、機能されるものであり、このような主観(体)性の相互共同性が対象の側に投影された時に客観的世界という表象が生まれる」という哲学の概念が基にあり、フロイトの時代から精神分析の概念に潜在していたが、用語として文献に登場し始めたのは1980年代以降だという。
69ページで述べたOgden(1997)の分析的第三者の概念は、間主観(体)性に基づくものである。この時の分析家の体験は、プライバシーを保持し、それによって無意識的受容性が醸成され、間主観(体)的交流をしながら、自らの無意識を役立てて被分析者の無意識を探索するということであると考えられる。そして、この体験は、即興演奏において、ソロ奏者のアドリブを無意識的に感受し、即時的に応答する伴奏者の体験に共通するものがあり、ここからも類推が生まれる可能性があると考える。
次に間主観(体)的交流と関連することであるが、コミュニケーション・スタイルにおける類似性も非常に重要である。Lichtenstein, Bader, Knoblauchは、いずれも先行研究の中で、精神分析とジャズの実践の場においては開かれたコミュニケーション・スタイルをとることが重要であるとの考えを示した。このことは不協和やズレへの対応に関係する。
Knoblauchは不協和は調和と連続したコミュニケーションのプロセスであり、分析の場ではネガティヴに捉えられることが多いが、ジャズにおいては不協和は、破壊力があるとともに創造力ももつものとみなされており、分析の場においても好奇心をもってそれを楽しむべきであると述べた(本論文p.17)。
ミュージシャンの調査データにおいても不協和をポジティヴに捉える意見が多かったが、共演者との間にリズム感や時間の感覚、演奏感覚の違い、技量の差がある場合には、ポジティヴに捉えることができにくい、との意見も示された。即興の場においては共演するミュージシャンは上記のような差異があるにせよ、互いに専門性の枠組が内在化された者同士ということで、修正もしやすいだろうが、分析の場では、分析家のみに専門性が内在化されているという非対称的関係がある。
このことにより、分析の場においては、ジャズの即興演奏の場よりも、差異が存在する場合のコミュニケーションが困難になるのではないか、ということが類推される。しかし被分析者が、分析家の専門性に支えられて、分析家とのあいだに時間や空間への感覚、多次元的コミュニケーションについて共有の枠組を創ることができるなら、分析の場における不協和やズレの捉えられ方は変化するのではないかと推察される。
精神分析とジャズのあいだには、このほかにも、類推を可能にするような類似性が数多く存在すると思われるが、本研究において考察できたのは以上である。
【即興によってもたらされるもの】
残された課題が一つある。精神分析とジャズにおいてそれぞれの目標とされる自発的即興がなされた時、何がもたらされるのか、ということである。治療や芸術的創造に際して大きな力を発揮するということは23ページで述べた。本研究の枠組の中で考察するならば、多次元性の体験と、多義性、不確実性とつきあう能力の醸成の二つを、答に加えることができるのではないかと考える。
人は日常生活のなかで、常に心の中に無意識の領域の広がりを体感しているわけではなく、自らが、戻すことも止めることもできない時間の進行の中で生きているということを認識しているわけでもない。また多義性や不確実性に対しては、不安を感じたり、否認したりすることが多いのではないか。しかし本研究で論述してきたように、「即興が生起する場」においては、多義性、不確実性が即興を生起させる契機になり、それによって空間の広がりが体験され、時間の再構成がなされるのである。
Meltzer,D.(1975p.223-227)は、「心的機能のパラメータとしての次元性」という理論を提示した。Bion(1967)の思索に重点をおいた心の発達の理論に対して、知覚、経験における情緒性が主として扱われている。この理論のなかで、Meltzerは知覚・体験が線的な一次元的経験様式と面的な二次元的経験様式は、心や意味をもたない次元であり、この2つの次元と、対象と自己の表面に開口部を認め、その内部に可能性空間を有する自己としての認識をもつ三次元的経験様式と、時間が元に戻せないことを理解する一方で希望という概念を知る四次元的経験様式のあいだには大きな違いがあると主張している。
Meltzerは自閉性障害の子どもの臨床事例を共同研究者と共にまとめた本のなかで、この理論を発表しており、自閉性障害に固有なありかたとして、経験を一次元の世界に還元するということを示唆しているが、病理から離れた、心のモデルとして捉えても、示唆に富む理論と考える。
Meltzerは平面的な心の表面に開口部を認め、そのなかに内的空間があることを知るのは、心の機能にとって大きな飛躍であるという。そしてそれは、自由連想のなかで、被分析者の無意識が意識と疎通し、自発的即興が表出することと、ジャズの即興演奏が生起することに類似していると考える。
「心の多次元的機能の働きを実感できること」、それが「即興によってもたらされるものは何か」という問いへのもう一つの答になるのではないかと考える。
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