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第2章 先行研究
先行研究について
精神分析とジャズの類似性に関連した研究は、アメリカで少なくとも半世紀以上前から行なわれてきた。いずれも精神分析の領域でなされた研究であり、精神分析の歴史的展開の影響を受けて、テーマと視点が変化している。これらの先行研究は、本研究の基盤をなすものであり、後に提示する仮説も先行研究の知見を基に構築される。以上のことから、先行研究については、年代が古いものから、精神分析の歴史的展開の影響も考慮しながら、考察を行いたい。精神分析とジャズの類似性についてどのような研究が行なわれてきたかを紹介することは、本研究の重要な役割と考えている。そのため先行研究概要の中には、仮説と直接関係しない知見も含めることとした。なお先行研究はすべて未邦訳のものであり、本論文に引用した箇所は筆者の仮訳である。
先行研究概要
二項対立的構図
Lichtenstein,D.は“The Rhetoric of Improvisation:Spontaneous Discourse in Jazz and Psychoanalysis"(1993) のなかで、精神分析とジャズの関係性を扱った先行研究として1950年代に発表された2つの論文を紹介している。この2つが、本研究が把握している最も古い先行研究である。
最初の論文はEsman,A.(1951)の“Jazz-A Study in Conflict"であり、「ジャズの即興演奏にみられる形式上の自由は権威authorityからの解放に対するある種の願望を象徴している」というテーマのもとで論述がなされている。Esmanは「ジャズ・ミュージシャンはソロ演奏のなかで、ヨーロッパ音楽において未知のものであった完全な自由を達成している」(Esman 1951,p.221)と述べ、ジャズとはアフリカ系アメリカ人の反逆への願望を表現するために創造されたもので、それが理由は違っても同じく反逆の願望を抱くインテリ層や若者にアピールしたのではないか、と示唆している。
次の論文はMargolis,N.(1954)の"A Theory on the Psychology of Jazz" であり、ここでは、ジャズにおける自由の理想化は「イドと超自我のアンビバレントな葛藤に起因する」(Margolis 1954,p276)という主張がなされている。Margolisは、イドと超自我の葛藤を、自由を理想化することによって解決しようとする時、ジャズがある役割を担うが、それは「若者の解決策」であると考え、「アンビバレントな青年の心理がジャズの推進力である」と結論づけた。
この二つの研究についてLichtenstein(1993)は、どちらも芸術様式の社会的、歴史的側面を、精神分析を応用して解釈するという一般的なアプローチを採っているが、専門性は高くないと評したうえで、問題点を指摘している。
Esmanの主張については、ジャズの即興演奏に完全な自由があるという考えに疑問を呈し「(ジャズの)即興演奏は、確かに形式や形式の根拠となるもの、形式と連合した前例をかなりの部分自由に変えられるという側面を持つ。しかしそれを完全な自由と名づけてしまうと基本的なポイントを見誤ることになる。自由に変えられるといっても、そこにはルールもしくは構造があるということだ。」(Lichtenstein、1993,p.229)と述べている。
また「ジャズの歴史は次の点において明らかである。それは完全な形式上の自由を目指そうとする表現は常によく守られた構造の範囲内に位置づけられているということだ。この弁証法的矛盾を過小評価すると、ジャズにとって真に重要な昇華的側面といえるであろうことを見失うことになる。それは創造と秩序の見事な接合である」(Lichtenstein1993,p.229)と述べ、弁証法的矛盾の一方にある「完全な自由」を理想化することは、もう一方の「形式の洗練」を軽んじることに繋がり、ジャズを賞賛しようとしているのであれば、逆効果かもしれないと指摘する。そしてEsmanの主張には「アフリカ系アメリカ人の芸術様式が原始的官能性の解放といった言葉で賞賛される時にみられる、かすかな人種差別意識」(Lichtenstein 1993,p.229)に通じるある種の思い上がりが感じられると述べている。
Margolis(1954)の先行研究についても、Lichtensteinは、やはり形式の重要性についての認識に欠けていると指摘。「同一化の対象としてジャズほど若者のニーズに適した芸術はほかにない」というMargolisの見解に対して「同様のことは19世紀のロマン主義運動や20世紀前半のモダニズムについても言うことができるし、革新的芸術を語る際に、形式に十分な注意を払わず内的動因の文脈のみで特徴づけることは不合理であり、危険であるとすら言える」(p.230)と述べている。
ジャズという芸術様式を、精神分析を応用して解釈するにあたってEsman(1951)は「権威と自由」、Margolis(1954)は「イドと超自我」という二項対立的構図を提示したが、Lichtenstein(1993)は、これに形式という視点を加えなければ偏った理論になると指摘したのである。
枠組と構造の認識
1950年代のEsmanおよびMargolisと1990年代のLichtensteinの意見が異なっている要因としては、構造や枠組に対する認識の変化が考えられる。そしてこの変化の背景には時代が影響していると考える。
ジャズについて言えば、1940年代から50年代前半にかけてはビバップからハードバップへつらなる系譜を主流とするモダンジャズの全盛期であり(Berliner,1994)、そこには形式的洗練も含まれていたが、人々の関心は次々に現れる革新的な即興演奏の方により強く向けられていた。しかしこのあと 1950年代後半から60年代にかけて、形式や枠組のなかで即興演奏を行なうのではなく、形式や枠組自体をなくして即興演奏を行なおうとするフリージャズ(フリーフォーム)が興隆する。Lichtenstein(1993) によれば、Esman(1951)の言う「完全な自由」はフリージャズにおいて達成されたが、その他の多くのジャズにおいて「完全な自由」は最終的な目標ではなかった、という。
このことについてCollier(1978、p.476-477)は、「フリージャズの興隆を経験したことで、多くの人が、秩序のないランダムな音楽が、人をどこか不安にさせるということに気づいた」と指摘している。フリージャズの興隆によって、逆に従来のジャズの枠組や構造が再認識されたのである。
精神分析の領域にも構造や枠組に対する認識の変化があった。Esman(1951)およびMargolis(1954)の主張は、独立した一つの心のなかで起きていることに視点を置く一者心理学の立場でなされていると考えられるが、この一者心理学は精神分析事典(p.378)によれば古典的精神分析理論に属する。しかし精神分析の歴史的展開とともに、創始者フロイトの考えを古典的理論とは異なった視点でとらえ、発展させた理論が数多く現れ、心を理解しようとする見地は、心の境界を枠組としてとらえ、その枠組と内側にある心との関わりの構造、枠組の外側にある他者の認識、枠組がどのようなものであり、どのような機能をもつかという概念、などを含めた多元的なものになっていった。心のモデルを分析の「場」に重ね合わせれば、この枠組と構造は、「場」の枠組・構造としてみることができる。とくに1950年代から60年代にかけては、Winnicott(1953)の「中間領域の概念」、小此木(1964)の「治療構造論的見地」、Bion(1968)の「思索についての理論」が提示されていることから、心を枠づけるものの認識が高まっていたと考えられる。
Esman(1951)とMargolis(1954)の先行研究に対するLichtenstein(1993)
の批判の背景の一つには、以上のような時代的背景があった。次にLichtenstein(1993)自身の論文を概説する。
自発的対話が生起する形式
Lichtensteinの“The Rhetoric of Improvisation:Spontaneous Discourse in Jazz and Psychoanalysis"(「即興のレトリック:ジャズと精神分析における自発的対話」)(1993)は、ジャズの即興演奏と精神分析の自由連想を「自発的対話」という言葉で結びつけ、形式や構造の見地から両者の類似性について考察した論文である。この論文は『American Imago,50:2』(1993 Johns Hopkins University Press)において発表され、1995年の『The Psychoanalytic Quarterly,64:823』にThomas Acklinによる要約が掲載された。
第1章でLichtensteinは「ジャズと精神分析において目標と方法がどれほど密接に関連しているのかを考えるのは非常に興味深い。精神分析を例にとれば(患者が)神経症的な制止もしくは症状から解き放たれて自由になることが目標であり、分析者に対して自発的に自己を表現する自由が確保されていることが、その方法である」(P.228)と述べている。ここでいう目標と方法は厳密に言えば同じではないが、「目的とされる自由は表現の自由であり、すべての神経症的症状はなんらかの自由の束縛を指し示す」(P.228)という理由から両者を同一のものとする見解があり、例えばAnton Kris(1982)が、この考えに沿って論述している、とLichtensteinは言う。
Lichtensteinは「精神分析の実践について定義するとき、まず第一に挙げられるのは自由連想法であり、精神分析が独自性を確立する基になったのも、この自由連想法である。この基本規則は他のいかなる会話とも異なるコミュニケーションもしくは対話の形式についての着想を提示している。自発的思考すなわち、その瞬間に心に浮かんだことに重点を置くところが他との違いであり、精神分析の仕事が忠実に行われれば、ある種の言語的即興が生起するはずである」(P.233)と述べ、この対話形式に対して、真実がそこにあるに違いないと認識することが分析の基本であり、分析家の仕事は、とりとめのない話が即興的にできるような場を創りだすことにある、と言っている。
以上述べた精神分析と自由連想の関係は、ジャズと即興演奏の関係に非常によく似ている。即興演奏はジャズの方法であり、ジャズを価値ある芸術様式として位置づけた最大の特徴(Lichtenstein P.233)であり、素晴らしい即興演奏をすることはジャズの目標となる。即興演奏とは、その瞬間、瞬間に自発的に自己を表現する行為であり、素晴らしい演奏をするためには、ミュージシャン同志、あるいはミュージシャンと聴衆の間で自発的対話が可能になるような場が必要である。また、ここでいう自発的対話とは、前提としてなんらかの制約や束縛、権威として存在する対象、もしくは対話の相手としての対象があり、それに対して自発的表現が行なわれ、コミュニケーションがなされる、ということであって、完全な自由を意味するものではない。
Lichtensteinは自由連想と即興演奏のこの類似性に着目した。同時に自由連想と即興演奏がそれぞれ精神分析とジャズにとって必須のものでありながら、これまでその形式的特徴の本質と意義について十分な評価がなされてこなかったのではないかと考えた。それが論文執筆の目的の一つであると彼は言う。
もう一つの目的は、精神分析と芸術の歴史的かかわりに関係している。「フロイトは精神分析の実践の基礎に据えようとする原理が、詩人たちにとって既知のものであることを示すために『夢判断』(1990)の中でシラーを引用した。芸術的ルーツはその後も科学としての精神分析のなかで一定の役割を果たし続けている。この伝統を認識し、精神分析における自由連想の効果を、シラーの原理が同じように機能しているもう一つの分野、ジャズの即興演奏との比較によって考察することもまた、本論の目的である」(P.228)とLichtensteinは述べている。
自由連想とジャズの即興演奏の類似性を考察するにあたってLichtensteinは、説明媒体の一つとして詩作を用いているが、ここではフロイトの「夢の仕事」の理論についてのラカンの考察が参照されている。詩においては、メタファー(隠喩)やメトニミー(換喩)といった変形法によって、言葉が多義性をもち、符号とそれが意味する対象の結びつきが緩められる。例えば人は、詩のなかの一つのフレーズを聞いて、それが潜在的に意味するものを理解すると同時にメタファーによってそれとは違う新しい意味、新しいなにかが加えられていることを感じとるということがあるが、同様のことが自由連想や即興演奏のなかでもみられる、とLichtensteinは言う。
彼はまた、自由連想とジャズの即興演奏に共通する幾つかの鍵概念について論述している。一つは「無意識のテクスト」である。自由連想と即興演奏は、時と共に進行するものであり、そこでは継時的テクストと共時的テクストの二つが働くのではないかと推定される。Lichtensteinは「可能性と限界を設定し、心的機能に似た機能を果たす即興演奏であれば、背後には、必ず潜在的音楽構造もしくは潜在的テクストが存在する」(P.231)と述べ「演奏者は既存の構造のなかから出現すると思われる新しい可能性を常に発見している。新たに出現する音楽フォームはそれが十分な説得力と真実性を備えている場合には、以前から存在していたものの、気づかれていなかった可能性が表出したようにも感じられる。すなわち潜在的テクストの発見であると同時にそれを元にした新たな創造でもあるわけで、精神分析の場における発見の性質と同じく逆説的なものである」(P.232)と記している。
次に、自由連想とジャズの即興演奏は、権威として感じられるものの束縛から脱する試みであるという見方があるが、これについてLichtensteinは「ジャズの即興演奏と精神分析は、対象についての、ある種の発見に関わる形式(枠組み)であり、この発見のなかで、ミュージシャンと被分析者は過去の権威とされるものとの関係において、一時的に自由を得る」(P.242)と述べている。
そして、この論文の後半においてLichtensteinは、ジャズの即興演奏と自由連想の事例の比較検討を行なっている。素材は、モダンジャズの代表的プレーヤーJohn Coltrane(サックス奏者)が1959年にレコーディングした「Giant Steps」(Atlantic#1311)のテーマおよび変奏の1コーラス目と、Kris,A.の著書「自由連想」(1982)に収められている「アダムの父の夢の報告」とその連想の事例である。
「Giant Steps」についてLichtensteinは「あたかもColtraneが、自分には見たところアンバランスで奇妙なギャップを伴った不安定な枠組という着想がある、と私たちに語っているようである。しかしながら不安定な枠組はそれ自体に寄りかかることによってメロディー等と共存しているように見える。」と語り、譜面を提示したうえで、主として音の動きについて分析を行っている。一方のKrisの事例は、「私は孤児院の前にいるアダム(患者の息子)を見ている。妻と私は死んでいる」という言葉で始まる夢の報告とそれに続く連想であり、夫婦、親子、性、死、罰といったテーマが象徴的に語られている。
この比較検討においてLichtensteinが提示したのは、夢や、即興演奏のもとになるテーマは、完全なオリジナルとして現出するのではなく、潜在的構造のなかにあるものが顕在化したという意味でヴァリエーションといえる、そして夢の報告とそれについての連想、あるいはテーマをもとにした変奏は、ヴァリエーションのさらなるヴァリエーションであり、それがまた新たなヴァリエーションを生みだす素材にもなる、というサイクルが見てとれるということである。
Lichtensteinが論述の目的に挙げた「自由連想とジャズの即興演奏に共通する形式的特徴の本質と意義」については、本文において明確なまとめはなされていない。しかし精神分析とジャズにおいては、固定した真実あるいは不変の対象の地位、といった概念はなじまないという考え方、そして「真実が存在し続けるのは即興的活動という継続的媒介物のなかにおいてなのである」(P.243)という記述にLichtensteinの論述の意図がうかがえるのではないか。また「自発的対話が、構造のなかで権威的対象との関係性の変化によって生起する」という両者の共通性は、本質的な類似性につながるものであると考える。
以上が“The Rhetoric of Improvisation:Spontaneous Discourse in Jazz and Psychoanalysis"
(1993)の概要である。この論文は、精神分析とジャズにおいてそれぞれ独自性を確立するよりどころとなってきた自由連想と即興演奏をさまざまな角度から比較検討し、精神分析とジャズに類似性があることを、一定の説得力をもって提示したという意味において、重要な論文であると考える。この結びつきが意外なものとして感じられるとすれば、それは、一方が病理や症状を扱うものであり、他方が芸術であるという、両者の内容の違いによるものと考えられるが、Lichtensteinの着眼点は形式の類似性にあり、形式の類似性をもって内容が異なる二つの領域を結びつけたことは、有意義であったと考える。しかしながらLichtensteinの研究は分析と演奏が実践される「場」に視点を置いてなされたものではない。また論述された類似性が臨床の場においてどのように役立つのかについても具体的には示されていない。Lichtensteinの研究に欠けているこの「臨床の場の視点」で書かれているのが、次に取り上げるBader,M.J.の論文である。
内在化と真実性
Bader,M.J.の"Authenticity And The Psychology Of Choice In The Analyst"(「真実性、そして分析者による最良の心理学の選択」)は『Psychoanalytic Quarterly 64:282-305』(1995)に掲載された論文である。この論文は、ジャズがテーマになっている訳ではないが、Baderが扱った事例の中でどのように真実性がもたらされ、それがどのように有益であったかを説明する際に、メタファーとしてジャズの即興演奏が取り上げられている。
Baderは「過去50年間の精神分析の展開のなかで最も重要なことの一つは臨床の中心的課題が“抑圧"から“自己の真実性の問題"に変わったことである」(P.284)、「分析のテクニックにおいても真実性の価値を重視する傾向が強まっており、この傾向は、分析者の心の自発的、無意識的な次元が臨床状況に関与しているという認識と結びついている」(P.282)と言う。
「自己の真実性の問題」については「例えば、Winnicott,D.WやKohut,H.そしてStern,Dを初めとする精神分析的乳児観察の専門家は、“本当の"自己、真実性のある自己を確認するための、あるいはその自己に調律するための患者たちの模索を、彼らの動機づけの理論の中心に据えた」(P.284)「こんにち、精神分析的治療を求める人たちは、真実の自己から疎外されていると感じていることが多い」(P.284)と述べている。
そしてBaderは、32歳のアジア系アメリカ人男性Johnの事例を紹介しながら、真実性の問題について論述する。Johnは口うるさく批判的な妻をアレルギー源のように感じ、罠にはめられたと思っており、そのことに罪悪感を抱いてBaderのもとにやって来た。Baderは精神分析の伝統にそって、客観的、中立的立場でJohnの話を聞き、彼が、幼児期に要求が強く高圧的な母親との間に築かれた支配・屈服のパターンをその後の人間関係において繰り返しているとの仮説を得るが、その後、治療は行き詰まる。Baderは自己分析を行い、彼自身の母親との関係にJohnのケースと類似したところがあり、患者のJohnがBaderのあら捜しをしたり、分析の効果があがらないことについて不満を述べたりすることへの怒りが自分の中で幼児体験の反復として感じられているのではないか、との洞察を得る。分析者が客観的、中立的であるだけでは、膠着した状況を打破できないと考えたBaderは、分析の場に、時に応じてユーモラスなやりとりを導入しようと決めた。それは自然なやりとりでなければ効果がないが、Johnが知性とウィットを兼ね備えていることをBaderは感じ取っており、見込みどおり、Johnはユーモアによく反応した。これにより二人の間に真の遊び心に満ちた自発的コミュニケーションが生まれ、分析関係が変化する。すなわち真実性がもたらされた、というのがBaderの考察である。Baderは、ここで重要なのは、Johnに何を話してもよい安全な空間を提供できたことであり、それがJohnの認知を明確化し、自発的な情緒の発露をもたらしたと述べている。
Johnが必要としていたのはこうした経験であり、自分と同様、彼にもまたそれを良い方向に使う意図があった、とBaderは言う。
「その意味で、私たち二人は、ともに慎重であり、自発的であったと言える。Duxler(1993)の示唆を参考に考えれば、このことのメタファーとして、音楽的即興を挙げることができる。ジャズ・ミュージシャンはそれについてあらかじめ考えている様子もなく、あるいは、いかなる意識的な音楽理論の枠組みを差し挟むこともなく、即興演奏をすることができる。なぜなら、彼らはコードとキイと非常に複雑なハーモニーの抽象的な関係を理解しており、あるレベルにおいて、彼らは自発的にそれを当然のことのように足場にし、応答し、即興演奏ができるからだ。そこにはセオリーと自発性、意識された意図と無意識の遊びと創造の弁証法的関係が存在する。セオリーの知識が自発的演奏を可能にするのだ。同様に、分析的相互作用においては、分析者の慎重さを伴う意向と理論上の理解が足場を供給し、その範囲のなかでたくさんの自発的で、記述的で情緒的な即興が生起することが可能になる」(Bader 1995,P.297)。
ここで扱われている「自己の真実性の問題」は精神分析において長きにわたって重要視されてきたテーマであり、前述のWinnicott、Kohut、Stern より以前にDeutsch,H.(1934)が「かのような人格as if personality」と名づけた、自己の真実性に重篤な問題を抱える人格の概念を提示している。Deutsch の概念に触発されて「本当の自己」と「偽りの自己」という人格に関する概念を提示したWinnicott(1971)は、実現せずにある本当の自己を探究する分析の場においては、「遊ぶこと」を見出すことが必要であり、それは言葉の選択、声の抑揚、ユーモアのセンスなどに表れてくる、と考えた。Johnの事例は、Winnicottのいう「遊ぶこと」が見出されたケースと考えられるが、Baderの論文は、彼自身が事例のなかで体験したことをジャズの即興に結びつけているところに独自性がある。精神分析においてもジャズにおいても自発的な即興は、枠組のなかで生起し、同じく即興的な応答があり、その自発的対話において真実性がもたらされるという解釈はLichtensteinと共通しているが、ここでは、ジャズ・ミュージシャンが、意識的にではなく、コードとキイと非常に複雑なハーモニーの抽象的な関係を理解していること、すなわち内なる枠組として内在化しているという点が強調されていると考える。
またBaderは、真実性、自発性を重視しながらも「何かに対して真実性がない、あるいは操作的である、と安易にラベルづけすることは、分析者の複雑な内的状況や間主観(体)的な場の重なりあう層を、黒白もしくは善悪に二分化するという危険を冒すことになる」(P.296)と述べているが、これは自由連想とジャズの即興演奏の場は、さまざまな可能性に対して開かれた場であるべきというLichtenstein(1993,P.6)の主張に通じるものがある。
Baderは以下の文で論文を締めくくっている。「理想であるが、私は、分析的真実性は、抵抗の分析を基本にした技法論から、1人の患者に意図的、戦略的に特定の情動を供給する方法まで、さまざまな技法論と共存できると信じている。臨床において分析者がどのようなアプローチを選ぶにせよ、真実性という課題が重要であることに変わりはない」(P.304)。
精神分析とジャズの類似性についてBaderはLichtensteinより具体的に提示した。次に取り上げる研究では、分析の場において、ジャズの要素が実際にとり入れられている。
非言語的コミュニケーション
Knoblauch,S.H.の“The Musical Edge of Therapeutic Dialogue"(「治療的対話のなかの音楽的エッジ」)は2000年にThe Analytic Prss社から刊行された175頁の書籍である。すべての章(全9章)で事例が紹介され、臨床と結びついた精神分析の理論が展開されている。タイトルにある音楽的エッジとは、リズム、トーン、テンポ、ボリューム、ヴォイス、といった音楽的感覚(注:edgeの適訳が見つけられないが、概念的にいって、主体の端にあって感覚がきざすところ、音楽的なものを感じとる触覚のようなものと考える)を意味しており、治療的対話において言語のやりとりと同時に存在する非言語的コミュニケーションの次元で、この音楽的エッジが重要な役割を果たす、というのが本書の主張である。
『Psychoanalytic Psychology,18:597- 601』(2001)に掲載されたStein,A.の書評によれば、本書の中心となる論題は「音楽的エッジの次元に注意を向けることによって、分析家は知覚する意味に対してより広い視野をもつことができる。分析家の応答性は(洞察、共感、真実性のどのモデルによって形づくられるにしても、あるいは三つのモデルすべてによって形成されるにしても)、何にもまして行動の非言語的次元によって決定的に形づくられるのではないか。」(Knoblauch,2000 P.80)という部分にあると言う。(注:括弧内は書評では省略されている)
著者略歴によればKnoblauchは20代前半の頃、コミュニティ・メンタル・ヘルスの領域で経験を積む一方でジャズ・ミュージシャンとして活動し、のちに精神分析のトレーニングを受けて、現在はニューヨークで治療と教育機関での指導にあたっている人物で、ジャズ・ミュージシャンとしての経験と臨床実践を結びつけることに熱意を注いできたという。したがってこの本においても、たびたびジャズと精神分析の類似性に言及している。『Canadian Journal of Psychoanalysis,9:282-285』(2000)に掲載されたChristopher Oliveの書評にも、「本書のタイトルは誤解を招きやすい。……彼(Knoblauch)は、治療的対話の情緒的側面に間主観(体)的体験をもたらすうえで役立つであろうプロセスに含まれる非言語的コミュニケーションの中のトーンやリズムやハーモニーなどが持つ特性を説明するうえで、特定の音楽、すなわちジャズをメタファーとして用いているからである。」と書かれており、音楽的エッジが実質的にはジャズ的感覚を意味していることが推定される。
実際、本書の第3章第2節は"Improvising and Accompaniment in Jazz as a Metaphor for Clinical Technique"(「臨床テクニックのメタファーとしてのジャズにおける即興と伴奏」)(P.36-39)と名づけられており、そこにはジャズ的感覚を臨床にどのように取り入れるかについてのKnoblauchの考えが述べられている。例えば次のような文章がある。「ジャズが聴く人の心を打つ要因の一つは、ソロ奏者と伴奏者の相互作用にある。……ジャズの意外性と活力、自発的な体験の確認は、即興を行なうソロ奏者が特定のテーマや曲の形式に対していつまでも続くかのような変奏を行なう自由によってのみ引き起こされているのではない。(ソロ奏者の)一つのトーンによるパターン化に力強く命が吹きこまれ、豊かさがもたらされるのは、バックにいてしばしば認識すらされない伴奏者からの応答、ソロ奏者と伴奏者の相互作用によるものなのだ」(P.36)。そしてKnoblauchは臨床の場に、意外性、活力、自発性をもたらすものとして、音楽的エッジの有効性を述べている。例えば分析者が、ジャズにおける伴奏者のように、被分析者(ソロ奏者)の即興に音楽的エッジによって応答する場合、それはリズムやトーン、ブレス、テンポ、ボリュームなど非言語的コミュニケーションの次元で行なわれるもので、被分析者の心的ムードを活性化させたり、鎮静化させる効果があるだけでなく、相手の予測に反する応答をすることが、複雑性や不確実性を増大させ、それによって“空間"がひろがり、時間の感覚への認識が生まれることにつながるとKnoblauchは言う。分析的対話が行き詰まった時、音楽的エッジがどのように有効に使えるかについては、この本に収められた数多くの事例のなかで具体的に記述されている。
精神分析とジャズの類似性という視点からみると、本書の中で重要なのは「非言語的コミュニケーション」「プロセスの輪郭づけ process contours」「調和と不調和」の三点ではないかと考える。
第1の非言語的コミュニケーションについてKnoblauchは、「感情や経験を言語にして話すことが困難な人がいる」(P.52)あるいは「言語的コミュニケーションは二人の人間が同時に話したら破綻するが、非言語のレベルでは、双方が同時にアクションを起こすことはよくあることで、むしろコミュニケーションを促進する場合が多い」(P58)と述べ、非言語的コミュニケーションのなかの音楽的エッジの有用性を主張している。一方でKnoblauchは、言語的コミュニケーションを否定することもなく「非言語的コミュニケーションによって、分析者と被分析者の間に好奇心に対して開かれた態度が経験されれば、それを足がかりにして、言語的公式化が可能になる」(P.52)と述べ、両者を一つのプロセスに包含されるものとしてとらえている。
プロセスを輪郭づける
次は「プロセスの輪郭づけprocess contours」であるが、Knoblauchは1990年代にBeebe, Lachmann(1992)らによって行なわれた乳児の知覚実験研究の知見をもとに「ボリューム、トーン、リズム、テンポ、視覚的手がかりといったプロセスの輪郭づけprocess contoursになるものが、(母子相互関係のそれぞれに特有の)パターンに識別可能な形を与え、音楽的エッジを観察や公式化に利用できるようにする。このプロセスの輪郭づけprocess contoursがあるおかげで、パターンはそれ自体は言語的意味をもたず、言語的精緻化がなされていないにもかかわらず、認識され、記憶され、再生されるのではないかと考えられる」(P.57)と述べている。そして「音楽的エッジの観点から言えば、プロセスの輪郭づけprocess contoursの次元で交わされるコミュニケーションが、明らかに前後の脈絡とは関係なく発生することを評して即興と呼ぶ。プロセスの輪郭づけprocess contoursのモデルにおいて、こうした即興は、想像的創造性imaginative
creativityを促進するうえで極めて重要であり、治療的プロセスにおける関係の可能性を拡げるための活力として必要なものである。」(P.75)と述べ、プロセスの輪郭づけのモデルにおける即興の重要性を主張している。
プロセスの輪郭づけprocess contoursは時間的推移にそって行なわれ、常に可変的でコミュニケーションがあることが前提であり、Knoblauchは、この用語を間主観(体)的文脈のなかで論じている。
不調和の力
第3の「調和と不調和」は第8章のテーマであるが、Knoblauchは「不調和dissonance」が持つポジティブな力に着目する。不調和、すなわち調和していないということは違和感、ズレをもたらし、離脱departure、分裂disruptionへと通じる。そしてこうした不調和、違和感、離脱departure、分裂disruptionは、セラピーを受けにくる人のあいだでは、不安やトラウマとして体験されていることが多い。
ここでKnoblauchはBethというクライエントの事例を挙げる。分析者のKnoblauchは、ある時、Bethとともに築きあげてきた調和のとれた、しかし出口のみえない、生気のない分析空間に耐えきれなくなり、感情的な発言で調和を破壊する。Knoblauchにとっては意図したことではなく、即興で出てしまったことらしい。次の瞬間、Bethの表情に不安がよぎり、それは怒りへと変わり、「彼女はそれまでとは違う生気に満ちたトーンとリズムでしゃべり始めた」(P.131-133)という。
この時のことをKnoblauchは「不調和という、それまでなじみのなかったことが訪れたその新奇な瞬間において、破壊力はただ傷つけるためのものではなく創造性を再編成するための力でもあったのではないか」(P.139)と振り返る。そして「音楽的エッジのやりとりを含んだ不調和な対話、調律されていない対話が決まりきったパターンからの解放をもたらした」(P.139)と述べている。
ジャズには不調和、不協和、ズレを一種の遊びとして楽しむという側面がある。ジャズ・ミュージシャンとしてそのことを知悉しているであろうKnoblauchは、調和と不調和はどちらかを単独では体験できない、と指摘する。調和も不調和もコミュニケーションのプロセスであり、調和から不調和への過程では、むしろ好奇心をもってそれを楽しみ、不調和から調和にいたったときにはその気持ちよさを味わえばよいという見解を彼は示し、不調和にポジティブな可能性があることを分析の場で患者に体験してもらうことが重要であると述べている。
開かれていること
本書においてKnoblauchの中で一貫している姿勢はLichtenstein やBaderと同じく「可能性に対して開かれていること」ではないかと考える。それは「ジャズにおける良い楽曲とは(変奏の)可能性を制限しない楽曲のことである」(P.95)という記述からもうかがえる。分析的対話もジャズの演奏も、時間の進行のなかでその場で自発的に変化し、発見し、創造してゆく過程である。そしてこれらはいずれも可能性を限るか、開くかによって成果に大きな違いがでるものである。
Knoblauchは正誤、勝敗といった二者択一ものの見方にとらわれている患者に対して音楽的エッジという次元を提示する。彼は多重的空間、多義性、多次元性を強く認識しており、そこから豊かな空間が生まれると考えているようである。
またこの本の最終章「Coda」には、第二次世界大戦中、デンマークに集った原子爆弾製造の鍵を握る人物(不確実性原理を提示したHeisenberg,W.と相補性原理を提唱したBohr,Nを含む)の心理を推理するドラマ「コペンハーゲン」(Frayne,M.1998)が、非言語的コミュニケーションによって人はいかに影響され変化するかを表す例として、また二次元の世界と三次元の物体が遭遇したらどんなことが起こるのかを描いた「フラットランド」(Abbott,E.A.1884)が間主観(体)的視点を類推する例として紹介されているが、これも自説の傍証とするために、広くさまざまな可能性を追い求めた結果ではないかと考える。
Knoblauchの“The Musical Edge of Therapeutic Dialogue"(2000)は、精神分析的心理療法の実践にジャズの要素をどのように生かすことができるかを提示し、精神分析とジャズの類似性の研究に新たな可能性をきりひらいた。今後どのように進展するかは未知であるが、Knoblauchの臨床実践については、別の書籍において評論がなされているので、次にその本を紹介する。
臨床への適用の可能性
"Between Couch and Piano - Psychoanalysis, music, art and neuroscience"
(「カウチとピアノのあいだ - 精神分析、音楽、美術そして神経科学」)(2004)は、精神科医で精神分析家のRose,G.が精神分析および神経科学の理論や知見をもとに、音楽や美術が人間心理に与える影響を考察し、精神分析とクリエイティヴ・アートの相互関係について概観した162頁の書籍である。
論題には「トラウマおよび喪失との関係における音楽」「全体性および同一性の感覚との関連からみる音楽」「音楽と美術の治療的効果の理論」などが含まれるが、取り上げられているのはヨーロッパの音楽(クラシック)、美術が中心で、ジャズについて言及されている箇所はわずかである。
そしてそのジャズに関する論述のなかにKnoblauchの“The Musical Edge of Therapeutic Dialogue"(2000)についての3頁にわたる論評がある(P.7- P.9)。
Roseはこの本を「言語化の意味的重要性と対照をなす音韻論的な見地からみた珠玉の臨床事例集」(P.7)と高く評したうえで「セラピストで元ジャズ・ミュージシャンでもある著者は、“情動に調律させる"ということを説明するアナロジーとして、音楽がどのように役立つかを提示することができた。これは、明らかに多くのセラピストのなかに潜在的に直観的な認識としてあるものを顕在化させる助けになるという意味で価値を持つ」(P.7)と評価の理由を挙げ、ジャズの要素を臨床に適用することについては「ジャズの即興演奏と伴奏は、“あるタイプの患者"たちと相互交流するさいの臨床テクニックのメタファーとして利用可能である」(P.7)と述べている。そして「Knoblauchが明確にしているのは、彼が描写する患者のタイプとは、しばしば言葉で語ることに困難を覚え、侵襲的なことに敏感でありすぎるために、治療においてしかるべき進展が達成されるまでは、タイミングよくなされる非言語的伴奏(訳注:音楽的意味をもって伝えられる応答、サポートと考えられる)の方が、受け入れやすいタイプということである。ここで示されているのはゆっくりした象徴の精緻化のプロセスであり、沈黙の対話である。そしてずっと後の段階において、言語的解釈による補完が行なわれ、患者は徐々に感じていることの言語による明確化ができるようになり、結果として自己調節と統合がもたらされる可能性がある」(P.8)とRoseは書いている。
一方でRoseは、患者とセラピストの相互作用と、音楽におけるコラボレーションを同じと考えてしまうことの危険性も指摘している。患者とセラピストは本質的に異なる見地に立っており、両者のバランスは何に焦点づけ、何に重点をおくかによって、絶えず変化している。そこに間主観的平等性の原則を無批判に適用したのでは、ことを見誤ることになるかもしれない」(P.8)とRoseは言う。そして「セラピストは、ソロ奏者に細やかな注意を払い、サポートしつつ侵襲的にならないことを旨とする伴奏者であるだけでなく、それが可能な時には(ジャズの世界でいう)耳の肥えた聴き手、批評家、プロフェッショナルな指導者の役割も果たさなければならない」「患者はただソロ奏者としての恩恵にあずかるためだけではなく、基本的に非対称的で、しかし機能するパートナーシップを求めて(お金を払って)セラピーを受けに来ているのだから。」(P.9)と述べている。
RoseはKnoblauchが示した「音楽的エッジを生かした臨床」について、その価値を認めた上で、効力が認められる患者のタイプを限定し、治療者 - 被治療者の関係と、ジャズの演奏におけるミュージシャン同志の関係を、無批判に同一視することの危険性を指摘した。Roseの論評は、精神分析とジャズの類似性の研究の今後の方向性を探るうえで重要な意味を持つと考える。
精神分析の領域で行なわれた、ジャズとの類似性の研究は、数は多いとはいえないものの、論述内容に精神分析の重要な概念に関わることが多く、論点が臨床に近づいてきていることもあって、一部の研究者および関心を持つ人々のあいだで、一定の理解を得たと考えられる。なぜならば、国際精神分析協会の大会がジャズ発祥の地、ニューオーリンズで開催された際に「精神分析とジャズ」というテーマでパネル・ディスカッションが行なわれているからである。
ジャズの故地で
2004年にアメリカのルイジアナ州ニューオーリンズで開催された第43回国際精神分析協会大会において「精神分析とジャズ」というテーマでパネル・ディスカッションが行なわれた。(開催日:2004年3月11日)
座長のRaeburn,B.B.(地元ニューオーリンズのTulane Univ.のジャズ資料館館長)よるレポートが『International Journal of Psychoanalysis 85:995-997』(2004)に掲載されているので、その要旨を紹介する。
Raeburnによれば、会場は立見がでるほど盛況であったという。
パネリストは4人で論題は多様性に富んでいた。
1人目のパネリスト、Rosenbloom,S.は、ジャズと精神分析に共通する三つの側面を提示した。第1は、修練にもとづく仕事、個人指導、個性化、creative blocks(創造性のもとになるもの)の統制を通じてなされるアイデンティティの形成といった個人にとって意味のある側面。第2が、コミュニケーションを通じてなされるコミュニティの構築というコミュニケーションの側面で、ここでは分析家による言語的 - 非言語的手がかりの用い方についてのKnoblauch,S.の説と、ジャズ・コンボにおいて相互に聴くことの意味が並行して論述された。第3は、ジャズの即興演奏と自由連想の構造の関連性という側面であり、ここでは、ジャズの即興演奏と夢の解釈における比喩的循環についてのLichtenstein,D.の論述と、音楽鑑賞における自我機能についてのNass,Mの論述が引用された。
Rosenbloomは最後にこう締めくくっている。「……この2つの領域において、厳しい訓練の目的は、すべて以下のことにある。すなわち、作曲であれ、即興であれ、日常的に音楽を創造する能力のあるジャズ・アーティストを産み出すこと、そして、患者がさまざまな回路を通じてもちこむものを、分析の中で有効に使えるように熟考できるだけの、思考の自由さを持った精神分析家を産み出すことである」
2人目のパネリスト、Karmel,R.は「『Cherokee』の現実化 - スウィング・メロディーのビ・バップの名曲への内在化」というテーマで、ジャズの機能とアイデンティティの発展について意見を述べた。
『Cherokee』はジャズがダンス音楽として人気を博したスウィング時代(1930年代中心)の曲で、Karmelはスウィング時代の音楽を「ダンス音楽としてのスウィングの機能的必然性に伴い、予測可能性が魅力になる」と言う。そして次にやってきた即興演奏が主となるビ・バップの時代に、Charlie Parker(サックス奏者)が、この『Cherokee』をもとに何度かアドリブ(変奏)を行ない、1945年のアドリブに『Koko』という別の題名がつけられる。Karmelは、実際に演奏を聴かせながら、「Parkerが『Cherokee』のテクストを、全く新しい“現実化"の手段として“内在化"した結果『Koko』が生まれた、と主張し、それは、フロイトの概念に始まって、“歴史的債務から解放された"解釈へと導かれる、精神分析の熟達の過程と類似している」と述べた。
3人目のパネリストは、国際的に知られたディキシーランドジャズ・クラリネット奏者でバンドリーダーでもあるWhite,M.博士で、伝統的なニューオーリーンズ・ジャズがもつ心理学的意味について個人的見解を提示した。
彼は「ブラスバンドのあとに続く行進者/ダンサーたちの‘セカンドライン'(シンコペートした2/4拍子のリズム)が、個々の自由の表現、コミュニティ・スピリットの再生、犯罪や貧困、人種的偏見が慢性的問題になっている地域に“人間らしさを回復させる"など、あまたの点で役割をはたしている」と述べ、「ジャズは、ストレスに能動的に対処するメカニスム(a coping mechanism)であるだけでなく、個々の即興演奏が全体としての調和を産み出すという点で民主主義の理想が、最もよいかたちで現れたものとも言えるのではないか - ダンサーは一つのリズムに反応しているが、個々の反応のしかたはどこか違う、そしてそれが全体として‘セカンドライン'を形成する。この波うつような行進が、都会の街路を、文化の復興の場に変えるのである」と話した。
4人目のパネリスト、Delgado,S.は、創造性についての論考をひきだすにあたって、児童期の愛着との関連性を語った。彼は「ミュージシャンの創造性は、ある水準において、精神分析家としての我々の仕事に通じるものがある。我々は自らの児童期の愛着のパターンの影響をずっと受けており、ある意味、そのおかげで、我々が創りだすものがどのように受け取られるかについて不確かなところがたくさんあるにしても、我慢強く許容することができる。さらにいえば、ジャズの聴衆が同一の反応を示さないのと同様、我々の患者も我々が1時間のあいだに創りだす音に対して同一の反応を示すことはないだろう。ミュージシャンと同じく、我々も、聴く者の反応に自らを調律させてゆくということである」と述べている。
続いて、パネリストの間でディスカッションが行なわれ、コミュニティの構築、集団状況における個性の融合。リーダーシップと養育、世代間の相違、伝統と様式、訓練のレベル、レパートリー(手持ちの技術のすべて、そのリスト)といったトピックについて、エピソードを交えた意見交換がなされた
Karmelは精神分析とジャズの類似性の探究に関連して、‘精神分析的ジャム・セッション'というアイディアを披露。それについて「両者の類似性はそこまできている。精神分析的ジャム・セッションは、ジャズのジャム・セッションと同様、必ずしも見せることを目的にする必要はない。……狙いは、難しくて意欲をそそるような事例を提示すること、そうした困難なものを概念化する努力、概念化したものを現実化する努力、といったことにある。精神分析における名人芸とは形にあらわれるものではないだろう。むしろ、そうした分析家の努力のさまたげになるものについて考えることが重要である」との意見を述べている。
以上がパネル・ディスカッションの内容のまとめであるが、多様な観点から、精神分析とジャズの類似性に関心を抱いている研究者がいることがわかる。
本論文においてすでに紹介したLichtensteinとKnoblauchの知見も取り上げられており、関連性があると考えられたので、先行研究概要の最後に加えた。
なお、Rosenbloomが触れているNass,M.の「音楽鑑賞における自我機能」についての知見は「Transformed Scream, through Mourning, to the Building of Psychic Structure」(Nass.Annual Psychoanal.,17:(14)9-181, 1989)から得たものと思われるが、特にジャズについて扱った論文ではないため、先行研究概要には加えなかった。
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