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第3章 仮説
先行研究では、精神分析とジャズの類似性についてさまざまな知見が示された。ここではそれらの知見を基に仮説を生成する。それは「即興が生起する場」の形式と体験に着目した仮説である。仮説では、ジャズのなかでも即興の重要度がとりわけ高いモダンジャズを検討の対象として取り上げるが、その定義については後述する。
3-1 形式の考察
即興が持つ力
自由連想と即興演奏が、精神分析とジャズのそれぞれの目標であると言われていることは先に述べた。理由として考えられることが二点ある。一点は、「自発的に生起する即興」が治療や芸術的創造に際して非常に大きな力を発揮するということ、もう一点は、「自発的即興」が、精神分析とジャズに共通する別の目的である「自己の探究」「自己との対話」を行うための方法になるということである。
前者について言えば、精神分析家のBollas(1999)は「(自由連想法)のもつ治療的な本質は、この方法がまったく自然に症状や病理構造にある麻痺的な支配力を破壊するところにある」(p.2)と述べ、『Thinking in Jazz- The Infinite Art of Improvisation』の著者Berliner,P.F.(1994)は、「究極の即興演奏とは、演奏の中で考え、確実性と意外性の境界上に芸術を創造しながら、自らデザインする道筋を旅することであり、それが実現した場合には、生命感あふれる没我の境地に到達する。即興演奏者にとって、演奏行為のなかで曲を創造するという、この感動的で魅力的な経験にまさるものはほとんど存在しない」(p.220)と記している。
このような大きな力を持つ「即興を生起させる形式」が、精神分析とジャズにおいて類似している、というのがLichtenstein(1993)の主張であった。
枠組・構造、権威、即興の源の三者関係
Lichtensteinの論述には、本研究の仮説生成にとって重要な知見がある。それは枠組・構造と、無意識の領域にあって即興の源になるもの(潜在的動因、潜在的テクスト)そして自由を束縛している権威authorityの三者の関係である。
自由連想法においては、被分析者は、治療契約にもとづいて設定された治療構造のなかで、頭に浮かんだことをすべてそのまま話すように言われる。伝統的精神分析であれば被分析者は寝椅子に寝そべり、後ろにいる分析家の顔が見えないシチュエーションで毎日セッションが続く。これが権威の束縛をゆるめ、潜在的テクストを動かして自発的即興を生起させるために用意された形式である。
一方でジャズの即興演奏においては、多くの場合、変奏の対象となる原曲があり、その曲に合ったコード進行、リズムの設定、曲想などが枠組となる。そして原曲のメロディーや、同じ曲に対して過去に行なわれた変奏のなかで原曲と同等の価値を与えられたものが、権威として存在する。
Lichtenstein(1993)は「二つの真摯な実践においては、不変の対象と思われたものが即興的表出に際して、今、ここで作られた記号を越えるような真に特権的な意味を持つ記号ではないということが明らかにされる」(p.242)と言い、それがミュージシャンと被分析者に一時的に自由をもたらし、「新たな即興的表出が十分な説得力を伴っていれば、それは真実とみなされ、新しい意味が創出される」と述べている。
重要なことは、この新しい意味が過去との断絶の上に創られたものではなく、歴史的つながりを保っているということだ。例えば「枯葉」という曲があるが、この曲はフランスの歌で、もともとスロー・バラードで歌われることが多かった。それがアメリカでモダンジャズ全盛期に、ノリのいい4ビートの器楽曲として多くのミュージシャンに取り上げられ、数々のすぐれた即興演奏がなされた。「枯葉」はジャズとして演奏されることで新しい意味を加えられたことになる。しかし演奏者や聴衆の多くは、それがシャンソンであることを知っていて、一つの「枯葉」を聴きながら、あるいは演奏しながら、過去に演奏されたさまざまな「枯葉」に思いを馳せ、今のこの場だけでなく、過去の複数の時点とのあいだにも同時につながりを持つ。それは分析の場における分析家と被分析者の関係に過去の人間関係が転移・逆転移といったかたちで持ち込まれることと類似していると考えられる。
Lichtenstein(1993)は、「即興は、今ここにある権威とされるものの文脈から一旦離れ、展開し、分解し、そうして生まれた断片があらたな文脈を導きだすというプロセスであり、過去に権威とされていたものは否認や排除をされるのではなく、新たな文脈のなかで別の意味を与えられる」と述べているが、このことは「即興が生起する場」において、枠組・構造が権威と分離して存在し、分解や断片化のプロセスを抱えているからこそ可能になると筆者は考える。それは無意識の領域から予想外のものが飛び出すことを促進する環境であり、即興を生みだす母体になる。
枠組・構造と権威の分離
精神分析とジャズはそれぞれに専門性が高い領域であるが、専門性に基づいた実践の場で、枠組・構造と権威の分離が容認されるだけでなくむしろ推奨されるということは、際だった特徴ではないかと考える。
他の専門領域について言えば、例えば精神医療や行動療法などでは、枠組・構造と治療を主導する治療者の権威がかなりの部分一体化しているように見える。音楽においても、例えばクラシック音楽では、楽譜が、枠組・構造を規定すると同時に、旋律や和声を含む演奏のありかたも規定するという権威的役割を担っていると考えられる。なぜならば楽譜と異なる音やフレーズを演奏した場合に、それはミステイクと受け止められるからである。これとは対照的に「ジャズにおいては、自発性、即興、多義性(あいまいさ)、不確実性、さらにはミステイクまでもが、とりわけミステイクが、新たな探究への道として、また即興演奏をする者の即応能力の証拠として扱われている」( Montuori 1997)。これはどちらが良いということではなく、クラシックとジャズでは、作品の権威、作曲者の権威に対する認識が違うということである。
ここでいう権威とは、説得力のあるもの、実績をもつもの、確信、固定観念、従わなければならない対象、自由を束縛するものなど肯定的な意味と否定的意味の両方を含む概念である。専門性に基づいた実践の場において、なんらかの目的を達成しようとするのであれば、場の参加者が共有する権威があり、それが枠組・構造と一体化しているほうが目的への道すじを明確にしやすいし、培った専門性も発揮しやすいだろう。しかし、精神分析的心理療法とモダンジャズの実践の場の形式はそのようになってはいない。権威は枠組・構造から分離し、個人にゆだねられるのだ。
権威は被分析者にとっては、例えば分析家であり、病理と結びついた麻痺的な支配力であるかもしれない。ジャズ・ミュージシャンにとっては、共演者への畏敬の念や、これから変奏しようとする曲にたいして過去になされた素晴らしい即興の記憶が権威と感じられるかもしれない。いずれにしても「即興が生起する場」においては、権威は枠組・構造とは離れた動きをする。それでは、「専門性に裏付けられた枠組・構造」は、どのような働きをするのだろうか。このことについて仮説を生成する。
枠組か構造か
仮説を提示する前に、枠組と構造を併記している理由を述べる必要があるだろう。本研究において枠組と構造という用語をどう捉え、どのような意味で用いているかということの説明である。
精神分析には「治療構造」(小此木1955~)という重要な概念があり、前項で述べた三者関係の一翼を示す言葉としては構造が最も適していると考える。しかし、ジャズについては、本論文の文脈から言って「演奏構造」よりは「演奏の枠組」の方がニュアンスが伝わりやすい。
Lichtenstein(1993)は、即興演奏全般を語る際には「構造structure」(p.229)を用いているが、個々の即興演奏に言及する時は「曲の枠組Framework」(p.244)という言葉を使っている。
本研究の視点から言えば、「即興が生起する場」は精神分析的心理療法あるいはモダンジャズの演奏の場として構造化されており、構造そのものが即興を生起させ、新しい意味を創出するうえで重要な役割を果たしているが、場のなかには、被分析者が抱えている問題や演奏される曲といったその時々のテーマの枠組があり、そこでも三者の関係が動いていると考えられる。
精神分析的心理療法では、分析者の役割も含めた治療構造が三者関係の一翼を担う形式が確立されているが、ジャズの場合は場の構造よりも演奏される曲の枠組に注目した方が、即興が生起する形式をとらえやすい。それは曲の枠組というものが、刻まれるリズム、コード進行、記憶されている原曲のメロディーなどを手がかりにして認識出来るからである。したがってジャズに関する論述では、枠組が対象となる場合が多いと考え、本論文では、枠組と構造を併記して用いることにした。
3-2 仮説Iの提示
【仮説I】精神分析的心理療法とモダンジャズの演奏の場において、自発的即興が生起し、展開し、収束する時、枠組・構造は以下の機能を果たしている。
(1) 守る:(枠組・構造には、権威とは分離したところで秩序とルールを提供する機能を持つ。すなわち即興によって権威とされるものが分解し、断片化しても枠組は崩壊しない、という安心感のよりどころになる)
(2) 葛藤を引き受ける:(即興のダイナミズムは権威との葛藤を回避して枠組・構造に向けられる場合もあれば、権威の束縛を脱してのちに枠組・構造に向けられることもある)
(3)まとめる:(枠組・構造は権威と分離しているので、権威が支配力を失っても枠組・構造は保持され、分解、断片化されたものを統合する。時間的つながりも保たれる)
精神分析の見地から解説を加えると、(1)の「守る」と(2)の「葛藤を引き受ける」は、治療構造の母性的機能と父性的機能に相当すると考える。対象恒常性を育み、治療関係のなかで患者を支え、心を開き、抱えるといった機能が母性的機能であり、葛藤の引き受け手となるのが父性的機能である。小此木(1990)は、治療構造の機能は、常にこの両面を備えている、と述べている。
(3)の「まとめる」機能に関しては、精神分析の治療構造は、常にうまくいくとは限らないかもしれないが、基本的に「まとめる」機能を有していると考えられる。そして、そこに精神分析の大きな価値が見出せると考える。「フロイト - その自我の軌跡」(1973)のなかで小此木は次のように述べている。「シュールレアリストたちにとって、フロイトの自由連想は、無意識を解放し、意識優位の既成秩序を破壊するラディカルな革命的方法を意味していたのである。ところが、かんじんのフロイトはまったく正反対の目的で、自由連想法を用いたのだ。それは、解放された無意識に対する意識=自我の優位を確立するための方法であった」(p.191)。
無意識の解放と意識優位の既成秩序の破壊が行なわれても「場」が崩壊しないのは、そこに治療構造があるためであり、自我の優位が確立するのは、治療構造が「まとめる」機能を持つためであると考える。
次に視点について述べる。枠組・構造は、概念として客観的にあるだけでなく、自由連想もしくは即興演奏を行なう者によって主観的に認識され、体験されるものである。この点について、小此木(1990)は、治療構造は多義的、多次元的概念であり、治療構造論は技法論だけではなく認識論も含むと述べている。このことは、治療構造の考察には、外からの視点も、中からの視点も必要ということを意味していると考える。仮説検討の素材となるジャズ・ミュージシャンの意見には、主観的認識・体験と客観的観察の両方が含まれているであろうが、筆者としては、どちらも等しく意味をもつものとして取り扱いたいと考える。
3-3 体験の考察
次に精神分析的心理療法とモダンジャズの演奏の場で、自発的即興が生起し機能している時に共通して体験されるであろうことについて考察する。
自他の境界とコミュニケーション
先行研究概要(p.13)で述べたが、Bader(1995)は、ジャズ・ミュージシャンは曲の枠組を無意識的に理解しており、それを足場にして自発的に即興のソロや応答ができるのであり、分析的相互作用においても、分析家の慎重さを伴う意向と理論上の理解という足場があって、その範囲の中で即興が生まれると考えた。
この足場というのは25ページで述べた「専門性に裏付けられた枠組・構造」と非常によく似た概念と考えることができる。そして上記のBaderの意見は、「ミュージシャンおよび分析家には、専門性に裏付けられた枠組・構造が内在化されていて、そこには表出のための回路が開かれており、専門性を持たない被分析者の場合も、分析家との応答を通して即興の源である無意識との疎通がはかられる」ということを意味していると考える。言い変えれば、即興が機能している時には、即興者は、それが湧きあがってくる無意識の領域とつながりをもち、みずからと対話しつつ他者と即時的に応答しているということになる。この場合、自己は自発性即興を行えるのであるから自立した自己であると考えられる。
Knoblauch(2000,p.135)は、自己との対話は、万能感と相対するものであると言う。そしてLichtenstein(1993,p.246)は「ある対象との関係は、その対象の境界を知ることによって生じる。対象が持つギャップは、欲求不満のもとであると同時に喜びの源泉にもなる」と述べている。自発的即興をする者は、自己との対話と他者との応答を的確に行なっている限りにおいて、対象との境界を理解していると言えるだろう。
自己と他者の違いはしばしば不調和や差異(ズレ)として認識され、心にネガティブな影響を及ぼすことがあるが、ジャズの演奏においては不調和や差異(ズレ)は即興を面白くする要素である。演奏者としての経験からそのことを理解しているKnoblauch(2000)は、17ページで記述したようにコミュニケーションにおいて、調和と不調和を連続性のあるものと捉え、どちらもポジティブに体験できるようにすることが分析の場において必要と指摘している。
即興をする者は、自己と他者に対して同時進行的にコミュニケーションをしている。そして即興の場においては、他にも多様なコミュニケーションが経験される。Knoblauch(2000,p.36)は、ジャズの意外性と活力、自発的体験の確認は、ソロ演奏によってのみもたらされるのではなく、伴奏者の意外性のある応答によって力強さと豊かさが加えられる、と述べ、ソロ奏者と伴奏者のポジティブな相互作用を分析的関係のメタファーとして記述した。彼はまた、非言語的コミュニケーションが持つ連続性の力に着目し、二人以上の人間が同時に言葉を発した場合、コミュニケーションは成立しないが、非言語的コミュニケーションの次元であれば、同時に多元的コミュニケーションが可能である、と指摘している。
またLichtenstein(1993,p.237)は、ソロ奏者の即興はその場にいる聴衆や共演者にむけられているだけではなく、過去に同様のテーマで演奏を行なったその場にいないミュージシャンにも向けられていると言い、即興の場には、その人にとって意味を持つ過去の人物とのコミュニケーションがあることを示した。分析の場においても同様の体験がなされることがあるだろう。
以上のことから、「即興が生起する場」とは、コミュニケーションに対して開かれた場であることがわかる。そしてそれは、即興者が自己の無意識の領域に通じる回路を持ち、他者との境界を認識していることが基になっていると考える。
あいだの空間
次に「即興が生起する場」で、時間と空間がどのように体験されているかについて考察する。Lichtenstein(1993,p.4)は「音楽は時の経過に合わせて展開するため、いずこかへ行ってしまいそうな印象を与える。そこでは、ある種の言語的意味を持つ錯覚、動きを伴う錯覚が共有される。音の連なりや言葉は、実際に空間を動く実体として存在するわけではないのだが、人はそうした印象を持ちやすいのだ」と述べ、分析的対話においても同様のことがあると言っている。
一方でKnoblauch(2000)は、ジャズの即興におけるソロ奏者と伴奏者の応答と分析的対話のどちらにおいても体験されうることとして、予想外の応答は、複雑さと不確実さを増大させるが、同時に空間の広がりと時間の感覚の再構成をもたらす、と述べている。
Lichtensteinは「ジャズ」ではなく「音楽」と書いているが、どちらの意見も、時間と空間が結びついて体験されることを示していると思料する。時間は止めることも戻すこともできない。 今、ここの場は、二度と繰り返せない。
その中で、多義的で予測できない言葉や音のつらなりに、主役の座を与えているのが「即興が生起する場」である。
時間的、空間的体験という視点から、この「場」をみたとき、重要なことは何であろうか。筆者は、それは「あいだの空間」ではないかと考える。理由は以下のとおりである。
Ogden,T.H.(1997,p.69)は「ドビュッシーは、音楽とは音のあいだの空間であると感じていた。精神分析にも、それとよく似たことがいえるだろう。分析的対話を構成する話された言葉の音のあいだには、分析家と被分析家の‘もの想い'がある。人が精神分析の音楽を見出すのは、‘もの想い'の相互作用によって占められるこの空間のなかである」と述べている。「もの想い」は、Bion,W.R.(1962)が提出した概念であり、「もの想い」の状態は、無意識的受容性を持つとOgdenは言う。(1997,p.5)
Ogdenの記述は音楽と精神分析における「あいだの空間」の捉えかたの類似性に関するものであり、音楽の領域にはジャズも含まれるので、本研究にとって重要な知見であると考える。
しかし本研究の視点で言えば、ここに「即興」という要素を加えて考察する必要がある。即興は、「前後の脈絡とは関係なく発生する」(Knoblauch,2000,p.75)ものであり、即興のなかで表出された言葉や音は、本来まとめようとする意図をもって発せられたものではない。場にいる人が心的に体験している「あいだの空間」が仮にからっぽであるならば、表出した言葉や音はどこともつながりがつけられず孤立するだけである。しかし「あいだの空間」にOgdenが記述したような無意識的受容性があれば、言葉と言葉のあいだ、音と音のあいだにKnoblauch(2000,p.38)のいう、空間spaceの広がり、時間の感覚の再構成が体験され、連続性が生まれるだろう。
無意識的受容性とは、表出されたことを一旦受け入れて咀嚼することであるかもしれないし、意外な表出に対するポジティブでかつ無意識的、非言語的な反応であるかもしれない。そうしたことが「あいだの空間」を豊かなものにし、その「あいだの空間」の連続性が即興という「とりとめのない展開の実践」(Lichtenstein,1993.p.227)を支え、意味のあるものにするのではないだろうか。この考えはBion(1961)およびOgden(1997)の洞察に依るものであるが、母子関係、分析的関係についての二人の洞察は、ジャズのソロ奏者と伴奏者の関係、演奏者と聴衆の関係にもあてはまるのではないかと考える。
「即興が生起する場」で時間と空間について体験されることとして「あいだの空間」が重要であると考えた理由は以上のとおりである。
次に体験の考察から導き出された仮説を提示する。
3-4 仮説IIの提示
【仮説II】精神分析的心理療法とモダンジャズの演奏の場において自発的即興が生起し、即時的かつ的確な言語的・非言語的応答がなされている時、以下のことが体験される。
(1) 自己と他者との境界を保ちつつ、多様なコミュニケーション・スタイルを体験する。
(2) あいだの空間が意味を持ち、そのことによって連続性が体験される。
3-5 モダンジャズについて
仮説に用いたモダンジャズという用語について説明する。まず定義であるが、本研究においては下記に引用した広辞苑の定義を基本とし、この定義に記載されている特徴を受け継いで現在も演奏されているジャズを含むこととする。
「モダンジャズ:1950年代の新傾向のジャズの総称。44年ごろに起こった革新的なビバップ様式を基盤に、旋律・和音・リズムの複雑化、即興性の強調を特徴とする。」(広辞苑)
1950年代の新傾向のジャズは、Collier,J.L(1978)によれば、「ハードバップ」「クールジャズ」「フリージャズ」と呼ばれるグループを含んでいる。この中で「フリージャズ」は、枠組と即興の関係が他のグループとは異なるが、それについては第5章で別に論述する。
「ビバップ」から「モダンジャズ」の時代の特徴的な演奏スタイルとして、コンボ形式が挙げられる。先行研究概要のLichtensteinの項(P.10)にあるJohn Coltraneの「Giant Steps」、そしてパネル・ディスカッションの項にあるCharlie Parkerの「Koko」(P.21)はいずれもコンボ形式で演奏されたものである。この演奏スタイルが生まれたいきさつは次のとおりである。
「1941年、日米開戦とともにアメリカは戦時体制に入り、戦時特別税としてクラブやホールでのダンスが高率課税の対象となった。そのためスウィング時代を通してファンを画期的に増していたダンス音楽としてのジャズは、鑑賞音楽の道を歩むことになった。また各種の統制と相次ぐ召集令によって、多人数のメンバーを必要とするビッグ・バンドの維持は困難となり、バンドはコンボ(3~8人程度の編成)と化した。……ニューヨークの黒人街、ハーレムのクラブでは毎夜、ジャム・セッション(任意にグループを組み、即興で演奏しあって腕を比べあう集い)が行なわれた。そこから互いの創意による新しい演奏スタイル、ビ・バップが生まれた。……初顔合わせの多いジャム・セッションでは、誰もが知っているブルースやポピュラー・スタンダードのコード進行を使ってアドリブの素材とすることが慣例になった。」(平凡社大百科事典 第6巻P.1285)
この「誰もが知っているブルースやポピュラー・スタンダードのコード進行」が本研究の仮説Iで言うところの枠組の具体例であり、ジャズ・ミュージシャンへの質問紙においても、上記の意味で枠組という言葉を説明した。
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