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第5章 結果の考察
本章ではジャズ・ミュージシャンへの質問紙調査のデータを提示して、仮説についての考察を行う。総合的考察は次章にて行なうこととする。
データの作成
調査用紙を回収後、質問項目ごとに全回答をまとめる作業をおこなった(付録資料II)。次に自由意見および全体の感想の設問をのぞく16の質問項目について項目別データ表を作成し、回答の要約を記入した。記入順はランダムである。その際、文章を簡潔化し、長文の回答は意味のまとまりをもつセンテンス、パラグラフの単位に分割し、別欄に記入する方法をとった。但し、分割によって文意をそこなう可能性があるものについては長文のまま記載した。また自由意見と感想については、同様に簡潔化と分割を行い、適切と考えられる項目別データ表に追加記入した。
質問項目は、研究の初期段階にKJ法(川喜田,1967)によって抽出したテーマを基に生成されており、グループIからグループIIIの設問は、仮説I,IIのテーマである「枠組・構造と即興」「自他の境界とコミュニケーション」「あいだの空間」に対応しているので、この項目別データ表は、仮説検討において有効な資料になると考える。
設問が仮説に直結しないグループIV以降の回答についても、同じ手順でデータ表を作成し、最後に全データ表を検討して、とくに仮説検討に有用と考えられるエピソードを別表に分けた。
質問調査の限られた枠内で回答されたことは、回答者の意見のほんの一端であると考えられる。また検討用データ作成時に、回答文の簡潔化と分割を行なっている。これらのことから、意見を分類しカウントする際には人数ではなく件数で数えることとする。
仮説Iの考察
仮説Iは、即興を生起させる形式としての、枠組・構造、権威、無意識の領域にある即興の源、の三者関係に注目し、即興の表出に際して枠組・構造がどのような機能を果たすかについて述べたものである。したがって、枠組、権威、即興の源、という概念に関連したデータが検討資料となる。
表1:即興演奏と枠組の関係をどうとらえているか
(1)枠組は即興演奏をまとめる役目をはたしている。聴衆との合意(ある曲を演奏しているとの意味で)、ミュージシャン同士の合意(予見できる展開)など。
(2)以前、「枠組」そのものが存在しないフリージャズをやっていたが通常は枠組の範囲内で演奏する。一旦作った枠組を超えて即興を行なうことは余りしていない。
(3)枠組=色
(major→より明るいminor→より暗い、などの抽象的なイメージ・感覚)と捉え、その「色」に応じた音を出力・調和させていく。
(4)「枠」とは楽器の存在に他ならない。その枠をすこしでも枠でなくするために、なんとか楽器のレベルまで自分を高めて、楽器と親しくなろうとしている。
(5)枠組みがないとまとめきれない。どれだけ崩してもここだけは共通認識を持つというコンセンサスがないと必要な時に呼吸を合わせづらい。枠組が緩く自由すぎても逆に展開がしづらい。
(6)枠組はアドリブのルールの一つ。
(7)枠組みがあることで創造への導入になる。パターン化したコード進行やフレーズがあることで容易に創造の世界に入ってゆける。
(8)枠組は歴史に培われてきたもの。即興は今演奏している瞬間を大事にしたもの。
(9)枠組という物をコード進行となぞるなら、そこにある音楽すべてが枠組となりうる。(Verse以外で)
(10)どんな素材でも(即興の)対象になりうる。ただモチーフは必要。
(11)枠組は即興演奏の拠り所。
(12)質問の意図がわからない。
(13)枠組は即興の拠り所。形を与えるものと考えている。
(14)ややこしく考えないから即興になる。
表1のデータでは、14件中11件で即興と枠組の関係についての記述があった。枠組に着目してこのデータをみると、概念上、即興の場に存在する枠組は一つではなく、多重的に存在しているのではないかということが推察される。
例えば(1)(2)(5)(6)は共演者や聴衆など他者と共有する枠組、(3)(4)は自己に内在化された枠組を想定していると考えられ、(7)(8)(11)(13)は、その両方が潜在的に認識されていると考えられる。また(9)は枠組を柔軟に捉え、演奏に即してシフトさせるという認識であると思われる。そして共有する枠組とは演奏する曲のキイ、コード進行、リズム形式が想定される。
(1)と(5)は「枠組は共通認識や合意のうえで必要であり、まとめる役目を果たす」という意見である。モダンジャズの演奏では、通例、最初に原曲のメロディーを演奏し、そこからアドリブにはいって、最後にまた原曲のメロディーに戻って曲を終えるが、観客は、コード進行やリズムといった曲の枠組によって、アドリブ演奏中も、何の曲であるかの認識を持つことができ、秩序も保たれる、刺激的なアドリブに興奮したあとで、最後に原曲のメロディーが再び流れると、「帰ってきた」安心感が得られる。これは枠組の「まとめる」機能だけでなく「守る」機能にも通じると考えられる。(6)の「ルール」、(11)(13)の「拠り所」についても、共有する枠組が存在するために演奏が崩壊しないということであるので、枠組は、「まとめる」「守る」機能を持つと考える。
一方で(3)の意見からは、内在化された枠組に色というモードがあり、そのモードを介して潜在的テクストが表出するという形式が想定される。(4)は「枠とは楽器の存在」といい、即興によって表現したいことと、楽器を通じて表現できることのあいだのギャップを、制約と捉えているように見受けられる。そしてこの枠をなくしたいと考えている。これは他者と共有する枠組ではなく、内在化された枠組の認識のありかたの一つであると考える。
(7)の意見は、精神分析的心理療法において、決められたルーティーンを守ることが、被分析者を自由連想の世界に導くうえで重要と言われていることと通じるものがある。「創造への導入」は枠組の母性的機能すなわち「守る」機能の働きによるものと考えられる。(7)においてはパターン化したコード進行やフレーズといった「他者と共有する枠組」と、即興を生みだす足場となる「内在化された枠組」が多重的に存在するのではないかと考えられる。ただしこれは概念であり、認識されているかどうかはわからない。
(8)は枠組が過去と現在をつなぐという認識であるが、これは仮設I-(3)の「まとめる」機能に相当するだろう。ここでも「共有される枠組」と、今演奏している瞬間を大事にする演奏者の「内的枠組」の両方が概念的に存在すると思われる。
枠組の認識はミュージシャンによって違うであろうし、同じミュージシャンでもそのときどきで変化するだろう。Bader(1995)は「ジャズ・ミュージシャンは無意識的に即興ができる足場を持っている」と言ったが、そのことを考えれば(14)の「ややこしく考えないから即興になる」は的を射た見解といえるのかもしれない。
表2:即興演奏のなかでフレーズ、リズム、コード進行(あるいはモード)等が湧き出てくる源は何か
(1)「源」は頭(感情との対比における理性)。全体のアンサンブルを聴きながら最もカッコよくするためにどうしたらよいかを考え、その場で使うのに最も適したフレーズをストックの中から選ぶ。
(2)繰り返し練習して感覚や意識の奥に染み付けたフレーズやリズム(他アーティストのも含む)などがストックされてきた無意識下に源がある。
(3)即興の源泉は多くの場合、過去の演奏家のフレーズの適切なセレクションであり、その選ばれ方は学習による蓄積、記憶力、センス、共演者からの影響、聴衆のノリ、音響の状態等の影響によって左右される。
(4)源は自分自身。
何かを発信する自分の積極的動機。フレーズ、リズム、ハーモニー等は音楽の要素なので別々ではなくトータルでバランスをとっていると思う。
(5)記憶、過去の練習の積み重ね、曲の展開に抱いている主観的イメージ、それとその時演奏している他メンバーの演奏する音楽とのギャップもアドリブを生みだす源泉かもしれない。
(6)それまでコピーしたもの、聞いたもの、音楽以外の経験も含まれているかもしれない。
(7)演奏者として常に新しい刺激を求めていること。曲に対して事前の静的でものではなくリアルタイムの動的構成を考えている。
(8)過去の音楽経験がベース。共演者へのリスペクトなどもないとはいえない。
(9)過去に聴いた音楽、自分が作曲した音楽。
(10)湧き出てくるということではなく、過去に反復して身についたことの組み合わせが連続的に起こっているだけに思える。
(11)経験
(12)予想されるコード進行(和音の流れ)
(13)経験と知識、センスが伴うフィーリング。
(14)私の場合、実際にはあらかじめ準備したものを演奏する、数小節先を考えながら弾く、さっき出してしまった音や他の人が出した音をなぞったり、反芻しながら別の音を出す、音楽理論的にこうだからこの音を出しておく、といった状態がいれかわりたちかわり発生しているという感じ。すべては過去に習得した複数の材料ややり方の組み合わせと、それらのバランスではないか。
表2は、「即興演奏の源は何であるか」についてのデータである。
(4)(7)(12)以外の11件が、過去の経験、すなわち「記憶されたもの」、「練習で身につけたもの」、「経験のなかで習得されたもの」が即興の基にあるという意見であり、(4)(7)(12)についても、専門性に裏付けられた枠組が内在化されていることを前提に意見のべていると考えられる。
ジャズの即興をテーマにした研究書「Thinking in Jazz」(Berliner,P.F,1994, p.63)のなかに「ジャズには、伝統として受け継がれてきたことがあり、演奏家には多大な努力と思考が求められる。ジャズは非常に構造化されたものであり、ただ気分のおもむくままに演奏するというものではない」というWynton Marsalis(トランペット奏者)の言葉があるが、これは、内在化された専門的枠組の存在を示す言葉と考える。
過去に蓄積されたものについて(2)は「感覚や意識の奥に染み付けてある」という。そして即興の表出については、「頭(理性)によってストックのなかからその場に適したものを選択する」(1)、「選択のされかたは、本人の要因、共演者からの影響、聴衆のノリ、場の条件によって左右される」(3)、「反復して身についたことの組み合わせが連続して起こっているだけ」(10)などの意見がある。
ここで重要なのは、即興は自発性、意外性、即時的応答が特徴であって、それは意識して、あるいは計算されてできるものではないということである。そして内的枠組は自発的即興の足場にはなるかもしれないが、それ自体は動因にはならない。
動因とみなせるものには、(4)の「何かを発信する自分の積極的動機」、(5)の「共演者の音楽とのギャップ」(7)の「演奏者として常に新しい刺激を求めていること」がある。また(3)の「センス」および(13)の「センスが伴うフィーリング」も枠組の機能とは別のものかもしれない。そして(8)の「共演者へのリスペクト」は、即興のモチベーションをかきたてる対象としての権威を意味しているのではないかと考える。
以上のことから考察されるのは、即興の表出に際して、他者と共有される枠組においてだけでなく、内的枠組においても、枠組・構造、権威、即興の源(潜在的テクスト、潜在的動因)の三者関係が働いているのではないかということである。
そうであるならば、共有される枠組、すなわち変奏の対象となる曲や形式の枠組の中で働く三者関係と、専門性を伴った内的枠組における三者関係のつながりをどう説明するのかという問いが提起されるだろう。
これに対する説明は以下のとおりである。
無意識的動因は即興に対するモチベーションであり、権威は、即興の対象であると考えれば、この2つ(場には他にも多数の枠組の存在が想定される)は、双方の枠組に共通しているとみなすことができる。そして内的枠組は、即興を生起させるための足場であり、共有の枠組は即興行為そのものの枠組で、両者は連続性をもち、かつ相補的で、どちらが欠けても即興は成立しない。すなわち三者関係は、たがいにつながりをもちながら、同時に多重的に働いているということになる。
続いて三者関係を構成する枠組以外の要素である、権威と無意識的動因について考察する。
表3:ジャズの特徴
(1)個人の悩み(ブルース)を個人に届ける、というところからスタートしたジャズは演奏性を武器に進化していった。モダンジャズ以降は構成や枠組(イディオム)をきわめてシンプルにし、それを音楽の骨格にして、後は個人の演奏能力、ゲーム性の高い即興的(刹那的)なスタイルをつくりあげた。その結果、ジャズにおける楽譜というものは非常に位置づけの低いものになり(コースターの裏にメモ書きする程度でよい)、演奏性も個人のスタイルに大きくゆだねられた。
(2)クラシックと比較した場合の大きな違いは作曲者の取り扱い。ジャズでは曲は素材でしかなく、それを料理するコックが腕をみせるタイプの音楽である。
(3)ジャズを始めるまでは楽譜にかいていないことを演奏するなんて考えられなかったし、始めてからもかなり抵抗を伴っていた。
表3は、ジャズ・ミュージシャンの「楽譜」や「作曲者」に対する認識のデータである。(1)と(2)は客観的視点、(3)は主観的視点で記述されている。
音楽においては、楽譜は尊重されるのが一般的であり、だからこそ(3)のように「始めは楽譜にかいてないことを演奏することに抵抗があった」という意見がでてくるのであるが、ジャズにおいては(1)(2)で言われているように、また25ページで述べたように、「楽譜」および「作曲者」は特権的、支配的な権威とはみなされていない。ジャズの中でも複雑にアレンジされたビッグバンドの曲のように、各パートごとに詳細な譜面が用意され、「譜面どおりに演奏する」というルールが適用される場合もあるが、コンボ編成のモダンジャズにおいては、テンポとリズムの合意があり、原曲のメロディーと代替コードを含むコード進行の知識もしくは予測能力があれば、即興演奏が成立するので、譜面は「合意事項の覚書」のような存在になる。
楽譜を、枠組と権威が一体化されたものと考えれば、ジャズの即興にお
いては、この二つは分離しているといえるが、即興の場にも権威は存在する。即興における権威とは、原曲のメロディーや同じ曲に対して過去になされたすぐれた変奏など、変奏の対象となるものであり、例えば表1-(7)のように、原曲を標準仕様で演奏することが創造への導入を容易にするということもある。この権威は演奏の枠組と一体化して一つの道すじを規定するものではないため、演奏者は自由に権威から離れて即興に入ることができる。即興に入るということは無数の選択肢のなかから瞬時になにかを選び取って先に進んで行くことであり、多義性や不確実性の増大と同時に多次元的な空間が広がることを意味する。聴く側にとっては、即興のダイナミズムの中に、権威である原曲のメロディーが埋没し、時に浮かびあがるという状況になるが、即興が収束すれば、権威はまた枠組の中にもどり、元のメロディーが演奏されて曲を終える。即興者にとって権威は、「こうあるべき」といった拘束力をもつものではない。逆に、権威に従ったのでは即興にはならないので、意外性と真実性(そして芸術的価値)を備えた「変奏」をしなければならない。それは別の意味でプレッシャーといえるだろう。しかも変奏をする場合、権威は規範や手本にはならない。
(3)の「楽譜にないことを演奏することに抵抗があった」は、見方を変えれば「楽譜どおりに演奏するのはジャズではない」と思うがゆえの意見と考えられる。(1)(2)(3)は、枠組と権威をそれぞれ独立したものと捉えるジャズ・ミュージシャンの認識を表すデータと考える。
表4:「ジャズを演奏したい」というモチベーションのもとになっているものは何か
(1)肉体・知性・感情を駆使してものを創造する行為を、ジャズの仕組みを理解した仲間同士で共有できること。それが時間軸で瞬間ごとに創られるスリリングな快感であること。
(2)ジャズはしゃべる言葉もリズムも自分の自由。自らの音ですべてを語った時、「元気になる力をもらった」という人が一人でもいたら、それがまた自分のエネルギーになる。
(3)楽器を自由に演奏する爽快さ。自分を表現できるフォーマット。脳内に心地よいハーモニー。柔軟性と奥行きがありうきうきするリズム。すぐれた共演者と音楽を作る喜び。神が降り能力の限界が拡大される瞬間。先人たちが築きあげた世界を共有できる楽しみ。聴衆との一体感、等。
(4)演奏する楽しさ。自分の音楽を少しでも理想に近い形まで高めることによって、この音楽の可能性を探りたい。
(5)アドリブをかっこよくという自己顕示欲。共演者とうまく調和させてみたい。演奏に臨む緊張感。失敗しても次がんばろう、というようないい意味での気軽さ。
(6)幸せな時にピアノを弾きたい。
(7)ジャズの様式で演奏されている音楽が好きだから。
(8)「愛している」から。
(9)好きだからとしかいいようがない。
(10)面白いから。始めた頃はジャズが演奏できれば女性にもてると固く信じていて、それが練習の糧だった。
(11)音楽そのものが楽しいし、自分なりに演奏してよいということになればますます楽しい。しかし「自分なり」のものを創れる人こそが音楽家だということがわかってきた。
(12)自分にとって表現欲求、精神の浄化が最も得やすい。感情の解放が可能である。自己の開放と他者との関わり、所属感が得られるのがセッション。
表4は、「モチベーション」についてのデータである。表2の考察で、即興に対するモチベーションが即興を生起させる潜在的動因であると想定したが、ここでは意識の領域以外に潜むその動因を考察する。
動因と結びつきそうな言葉を検索すると、「快感」(1)、「心地よい」(3)、「うきうきする」(3)、「喜び」(3)、「楽しい」(4)、(11)、「幸せ」(6)、「好き」(7)、(9)、「愛している」(8)、「面白い」(10)、とポジティブで身体感覚に結びつく感情をあらわす言葉が多数抽出された。そして(1)は
「肉体・知性・感情を駆使した創造行為を、仕組を理解した仲間同士で共有できること」、(3)は「先人たちが築き上げた世界を共有できる楽しみ」
と、「共有」について述べ、(2)は「エネルギー」、(1)と(5)は「スリル、緊張感」をモチベーションのもとになるものとして挙げた。
(12)には「自己の開放と他者との関わり、所属感が得られるのがセッション」とあり、すべての意見において、自身の「快」を伴う刺激、身体感覚、感情の体験がモチベーションのもととして語られている。
「エネルギー」「うきうき」「スリリング」といった言葉があることから、これらの体験は実感を伴う体験と考えられる。そしてモチベーションを語るにあたって、「こうあらなければならない」とか「こういう目標を達成したい」といった権威の束縛のようなものが感じられない。すなわち自身の心にあることを自発的に語ったものと考えられる。
これらのことから、ジャズを演奏するモチベーションは即興を生起させる潜在的動因といえるのではないかと考える。
表3、表4では、即興を生起させる三者関係のなかで、権威と潜在的動因について考察した。そして、ジャズの即興が生起している時には、権威は枠組から離れ、即興のダイナミズムとともに動くという論旨で論述を行なった。これは仮説I-(1)で示されている状態である。
次は即興のダイナミズムが枠組を超えそうになる、という状態について考察する。
表5: 即興演奏が枠組を超えて広がりそうになった経験があるか
(1)ある。広がることはある程度許されているので意識的にすることもある。
(2)ある。ライヴではフリーになることが多々ある。
(3)ある。ソロ演奏にのみあるし可能。
(4)ある。
(5)ある。
(6)ある。形式を超えるという意識よりもハーモニーの流れのなかで思いのほか素敵なメロディが紡げたときに枠を超えた広がりを感じる事がある。
(7)ある瞬間に枠組のなかにいるとも思わないし、枠組を超えているという感触もない。日常の演奏において最初に枠組があるという意識はないように思う。
(8)ある。ジャズは枠組の中で枠組を利用しながら枠組からどれだけ遠いところへ行って戻ってくるかを競うゲームであるから、うまくいけば新たなルールの創造になる。
(9)ある。普通なら使わないコードや音が飛び出て予想外にいい感じになったのを上手い演者がひろってくれてうまく展開した、ということがあった。
(10)ある。リズムをフリーにしてしまうソロに抵抗はない。ソロの時に一旦リズムを外してしまう時がある。共演者はどうやって戻すつもりかと怪訝な顔をしながら、私のソロを聞いている。
(11)ある。
ほんの数回だがあった。
(12)ある。
(13)ある。
枠を越えて、また別の枠に行っているだけかもしれないが、そのようなことはよく起こると思う
(14)ある。
セッションが盛り上がって、一体化して全体が「アウト」していった時。
(15)(即興が枠組を超える経験)「マイルス・ディビス・イン・ベルリン」に収録されている「枯葉」で、ハンコックを先頭に全員の演奏がどんどん枠組を外れていくシーンがある。聴衆はどこへいってしまうのか、とスリル満点であるが、演奏者たちは枠組の中で逸脱を行なっているという冷静な視点を維持している。その証拠に曲が進行する時間どおりに次のコーラスの頭がやってくる。全員が復帰する。枠組のない自由なジャズ演奏を目指すなら、最初から予定調和的に枠組をもうけないか、枠組ではなくモチーフと考え、それを発展させていく、という取り決めを演奏者間でとりかわさなければならない。それはバンド・コンセプトであり、新たなルールの創造である。それ以外の場合、一人枠組を超えてしまった演奏者に共演者がついてこられるケースは相当まれである。そしてその演奏者は二度と呼ばれない。
表5は、「即興が枠組を超えてひろがりそうになった経験」のデータで、14件中13件が「ある」との回答だった。残る1件は、日常の演奏において枠組を意識していないという意見である。この枠組は表1で考察された共有する枠組と考えられる。
表1のデータには、枠組はルールや拠り所という意見が複数あったが、そうであるならば即興のダイナミズムが枠組を超えそうになった時、外に向かおうとする力動と、内にとどまろうとする力動のあいだで、枠組をはさんで葛藤が生じるのではないかと考えられる。表5の意見はどうであるかというと、(6)の「思いのほか素敵なメロディー」、(9)の「予想外にいい感じ」、(10)の「共演者はどうやって戻すつもりかと怪訝な顔で私のソロを聞いている」というように、この状況を「意外」「面白い」とポジティブにとらえる意見が多い。(8)の「ジャズは枠組の中で枠組を利用しながら枠組からどれだけ遠いところに行って帰ってくるかを競うゲームである」という意見も同様で、枠組を壊したり外したりするのではなく、存在を認めたうえで、そこから離れたり戻ったりすることを楽しんでいるという認識がうかがえる。この枠組に対する認識は、表3における権威に対する認識に類似している。表3の考察で、「即興者が権威である元のメロディーを演奏したあとで即興に入る時、空間が広がる」と述べたが、表5-(6)には、「思いのほか素敵なメロディーを紡げたときに枠組を超えた広がりを感じる」と類似した記述がある。このことは、原曲のメロディーなど権威とされるものを、多義性と不確実性のなかに取り込んだ即興のダイナミズムが、今度は枠組に向かって同じことをしようとしているとも考えられる。そして、この葛藤は、ミュージシャンにとっては「意外性」や「面白さ」を生みだすもととして認識されているのである。Knoblauch(2000)が臨床に取り入れようとしたジャズの要素は「意外性」「活力」「自発的体験の確認」であったが(本論文p.(14)、枠組をはさんだ、この葛藤には、上記の三つの要素すべてが含まれていると考える。
(15)は回答欄で紹介されていたエピソードで、「聴衆を興奮させた枠組の中の逸脱」の実例である。どんなに外れていくように思えても、時間どおりに次のコーラスの頭で全員が復帰する(ぴたりと合う)というのは、演奏者たちが、その場において「葛藤の相手としての枠組」と「まとめる枠組」のあいだで折り合いをつけた結果であったと推察できる。。「Thinking in Jazz」(Berliner,1994)の中で当事者Herbie Hancock(ピアニスト)は当時(1960年代)のことを次のように語っている。
「私たちは音楽上の実験のようなことを行なっていて、それはピーンと張った綱の上を歩いているようなものでした。ただし完全な実験ではなく、私たちはそれを‘制御された自由controlled freedom'と読んでいました」(p.341)
先行研究概要(p.7)で述べたように、1960年代はフリージャズが興隆した時代だった。そして枠組を外したジャズに触れることによって、枠組の再認識がなされた。次はそのフリージャズについて考察する。
表6:フリージャズについてどう考えるか
(1)フリージャズはとても高度なテクニックを要求されると思う。それがないと単にデタラメになってしまう。また形式上のフリージャズというのでなければ、ジャズはすべてフリーであるべきだと思う。それは枠組があってもフリーだということだ。
(2)フリージャズにも「枠組」「形式」「手法」といえるようなものがある。そういうのがまったくないものはただのノイズである。フリージャズをうまくやるのは難しいが、へたにやるのでもやるほうは面白い。聴く人に面白さが伝わるほどのフリージャズはそうそうできるものではない。
(3)フリージャズにはコード進行、調整、一定で流れるリズムといった枠組はなく多くの聴衆はそれを完全な自由と捉えてしまうが、独自の枠組がある。物理的ルールにそって即興するよりも、より審美的な世界の中で即興できるという点ではより自由であり、人間的であるといえる。
(4)ジャズという音楽の持つコスモポリタニズムとしての特質が生んだ当然の結果。フリーという形態を聴衆の美意識に共鳴させるか否かも結局はその演奏者の美的価値観と修練の結実であり、ケース・バイ・ケース…と考えている。
(5)演奏することに抵抗はないが、頭でいろいろ考え出すと分からなくなる(聴衆にどんなメッセージを送りたいのか、共演者とどこで繋がっているのか、そのメンバーと一緒にやる必然性があるのか、など)。結論として聴衆が気にいればまたきてくれるだろうし嫌なら二度と来ないだろうと考え、思考を停止した。
(6)よくわからない。自分に合うフリージャズを聴いたことがないだけかもしれない。
(7)私はフリージャズを演奏するが、それについてなにか考えをもつことはない。
(8)聴く分には正直よく理解できないことが多い。しかしその性質上、即興性が大いに有意なので「偶然の産物」的な面白さや美しさが追求され、また衝動性や直感性が表出されやすいものだと思う。
(9)ジャズに初めて出会った頃は理解不能なもの。今は作品によって興奮するものもあるが、よくわからない。
(10)ジャズという言葉が被っていれば、演奏形式も楽曲形式もジャズであり、完全なフリーとはならない。
(11)良い音楽と思う。
(12)レベルによる。
(13)生きている息吹のような凄みを感じる。
(14)かなりしんどいと思う。創造に大変なパワーがいるから。
ここではフリージャズを枠組と即興の観点から考察する。前衛芸術として語られることが多いフリージャズには、明確な定義はないが、特徴の一つとしてリズム形式、テンポ、即興の元になるメロディーといった、演奏者が共有する枠組をなくして、より自由な即興をめざすということが挙げられる。枠組についての意見としては(2)(3)の「フリージャズにも独自の枠組がある」、(10)の「ジャズという以上演奏形式も楽曲形式もジャズであり完全なフリーとはならない」があり、「そういったものがまったくないのはただのノイズである」(2)との考えもある。また(8)の「衝動性、直感性が表出されやすい」「偶然の産物的な面白さ」、(9)の「作品によって興奮するものもある」、(13)の「生きている息吹のようなすごみを感じる」、(3)の「物理的ルールにそって即興するよりも、より審美的な世界で即興できる」など、自由度の高い即興が与える力を評価する意見がある一方で、「面白さを人に伝えるのが難しい」(2)、「どんなメッセージを送りたいのか、共演者とどこでつながっているのかが分かりにくい」(5)など、共有する枠組がないことによって、つながりを認識しづらくなるという意見もある。
仮説Iの観点からみると、フリージャズは、表5で考察した、「即興が枠組を超えて広がりそうになる状態」よりさらに進んで「最初から枠組を超えてしまっている状態」と見ることができ、即興者は、表5-(6)よりも大規模な空間の広がりを感じているであろうと推察される。そしてその広い空間において何かを創造するには、「高度なテクニック」(1)、と「大変なパワー」((14))が必要とされ、それがない場合には、「デタラメ」(1)、「ノイズ」(2)になってしまう、ということと考える。
またフリージャズにも、枠組、形式、手法があるという(2)、(3)、(10)の意見も「世のあらゆる事象には枠組・構造がある」ということを考えれば理解できる。そして場の状況に応じて枠組の認識を変えられるのが、フリージャズの面白さであるのかもしれないが、このことについては、このデータでは判断できない。
ジャズ・ミュージシャンは素晴らしい即興をすることが目標であり、そのために最も適合すると思われる枠組を常に探究している。適合とは、「自分に合う」、「(共演者を含めた)場に合う」、「聴衆に合う」、「時代に合う」(表7-(3)など、さまざまな対象との関係において判断される。
フリージャズ興隆の背景には、ベトナム反戦運動や公民権運動が盛り上がった1960年代のアメリカの社会情勢があった。Berliner(1994,p.471)によればフリージャズの演奏家は、枠組の中で即興を行なうビ・バップの演奏家に対してアバンギャルド(前衛)と呼ばれ、ジャズ界の新旧対決は当時大きな話題になったという。しかし7ページで述べたように、フリージャズはモダンジャズの中に一定の地位を確立したものの、聴衆の幅広い支持を得るにはいたらなかった。
表6-(2)の「フリージャズを演奏するのは面白いが、聴く人に面白さが伝わるようなフリージャズはそうできるものではない」という意見であるが、これは、先に述べたようにフリージャズには、「演奏者にも観客にも馴染みのある曲」という共有できる枠組がないということと関係するのではないかと考える。この枠組は伝える媒体でもあるからである。
伝統的モダンジャズは多くの場合、演奏者と観客が曲の枠組を共有し、その枠組のなかで、即興が生起して、枠組と即興の葛藤を時にはスリリングに、時には感傷的に楽しみ、最後はまた枠組にもどって曲を終える、という形式をとる。この形式が現在も多くの人々に支持されているのは、即興と枠組の関係が、ジャズの演奏にとって「ほどよい」ものであるからではないかと考える。
次はジャズの即興の基本といわれるブルース形式について考察する。
(表6の考察にあたっては、下記の表7の参考意見を参照した)
表7:枠組について(参考意見)
(1)即興の進歩はその枠組の最小化と興奮を論理的に理由づけた逸脱の手法の開発にある。
(2)枠組の最小化は共演者とのコラボレーションを容易にする。
(3)演奏家がジャズを演奏する場合、その時代に聴衆から正当と思われる(快適と思われる)枠組を維持することを余儀なくされる。
(4)即興演奏に必要な枠組とは「コード進行とリズム形式」である。
(5)ジャズというジャンルの中だけでもそれまでに形成された枠をどんどん壊し、時代と共に進化していっていると思う。
表8: ブルースのアドリブとそれ以外の曲のアドリブに違いがあると思うか
(1)アドリブをするという行為に違いがあるとは思えない。
(2)違いはない。
(3)特にない。
ブルース・フレーズと西洋近代音声のぶつかり合いはあらゆるジャズ曲で起こる。
(4)違いがある。
ブルースは曲が違ってもどこか似た曲という感覚で他の曲は似たコード進行でもやはり別の曲と言う印象。アドリブもそういったことを反映して変わっていると思う。
(5)区別していない。
(6)違いはない
枠組のパターンの一つ。根本的に違いはないと思う。
(7)ブルースほど難しいと感じる時はある。ただ曲の持つ意味やイメージにのっとって演奏しているうち、それがブルースと融合してしまうという経験もある。
(8)枠組の内容で当然違う。
(9)質問の意味が正確にわからないが、違いはないと思う。
(10)わからない。
(11)違いはあるが、ほかの曲同士にも違いはありブルースだけ、「違い方」が違うというようなことはないと思う。
(12)(違いは)ないと思う。
(13)違いはあると思うが、それはどの音楽にも言える。
(14)演奏するときの軸足はその曲の元のメロディーのような気がするが、ブルースの場合はコード進行が頭の中で鳴っている気がする。
「ブルースとはアフリカ系アメリカ人の伝統的大衆音楽の形式で、抑圧のなかで味わった個人的感情をつぶやくように吐き出す歌として発生し、20世紀初頭にほぼ一定の形式を持つようになった。即興音楽としてのジャズを生む母体になったとする学者もおり、ブルースがジャズの基盤の一つであることは間違いない」(平凡社大百科事典・要約)
ブルース形式で作曲された曲は無数にあるが、曲名ではなく、単にブルースと言う場合は、1コーラス12小節で、一定のコード進行をもった形式を意味する。これは仮説Iでいう「権威と分離した枠組」そのものである。
ブルースの出発点は、個人の憂鬱bluesを個人に届けることにあり、(表3 -
(1)、ブルーノートという多義性と不確実性に満ちた音を使うことによって、聴く人の心の内側(無意識の領域)にまで届くフレーズが次々に生み出された。ブルースの枠組は、こうした過去とつながっている。
質問は「ブルースのアドリブとその他の曲のアドリブに違いがあると思うか」であり、集計結果は「ない」あるいは「区別していない」が14件中7件、「ある」が6件、「わからない」が1件だった。「ある」のうち、ブルースが他の曲とどう違うのかについての記述があったのは3件で、(14)の、「ブルースの曲を演奏するときはコード進行が頭の中で鳴っている」、(4)の「ブルース形式の曲は違う曲でもどこか似ていると感じ、それがアドリブにも反映される」、(7)の「演奏しているうち、それがブルースと融合してしまう」というコメントは、いずれもブルースという枠組の存在感の大きさを感じさせる。ブルース形式で作られた曲の即興においては、曲が違っても、それがブルースであることが常に感じられている。そして即興が破綻しないという安心感のよりどころとなり、ブルースが持つ豊かな過去とのつながりも保たれる。このことから、ブルース形式は、即興が生起する枠組・構造の「守る」「まとめる」機能を備えていると考える。「葛藤を引き受ける」機能については表8のデータからは、考察材料が得られなかった。
なおCollier
(1978.p.42)は、「ブルース形式は小さいながらも見事に洗練されていて、即興が前進するごとに、感動的体験が味わえる。20世紀に創られた最も強力で最も魅力的な音楽フォームのひとつである」と述べている。
仮説IIの考察
仮説IIの考察では、II-(1)「自己の体験」、「他者との境界の認識」、「コミュニケーションの体験」、II-(2)「あいだの空間の認識」の順に考察を行う。
精神分析において「自己」という用語はさまざまな意味をもち厳密に定義することはできないが、Landis,B(1970)が、自我境界という場合の自我を「本人が自覚(意識化)することのできる人格の内容、つまり価値、目的、感情、気分、態度などを含んで自分自身の存在について本人が抱いている自分の全体的な認識」と定義し、それは「一般用語としての自己と同義である」としていることから、基本的にこの定義を念頭において考察を行うこととする。
表9:即興演奏ができるようになるまでどのような努力をしたか
(1)別に特別なことはなかった。
(2)楽器への習熟。
コピーによる即興演奏の方法の習得。コピー分析による音楽理論習得。
(3)他人の演奏のコピーを繰り返して演奏した。
(4)人の演奏を「聴き」「受け入れる」努力。当然のことながら理論も学ぶ。
(5)スケールとコードを何度も弾いたり聴いたりは当然していたが、結局は継続的にセッションに出て、身体で覚えたという感じ。
(6)具体的にこれといった努力はあまりしていない。即興演奏は努力してできるようになったり、できるようになったと判断するようなことではないと考えている。
(7)レコードを聴き頭の中にフレーズを蓄積→楽器にてそのフレーズを再現→レコードと一緒に楽器を演奏→聞き取れないフレーズは採譜して繰り返し演奏→さまざまな共演者と演奏する機会を持ち、蓄積したフレーズを繰り返しテストした。
(8)ジャズの即興演奏という事なら、まず、その音使い(サウンド)、クラシックと異なるリズムを身体に馴染ます。レコードのコピー、一緒に演奏する等。
(9)学生時代から会社に勤めている時もいつも頭でジャズを歌っていた。通学や通勤の時も、歩いているときはそのリズムでフレーズを口ずさんでいた。努力は特にしたことがない。
(10)努力かどうかは別としてとにかくよく聞いた。それから自分が気になるフレーズなどはできるようになるまで練習することになる。
(11)人まねを延々と練習した。次にそうやって覚えたものを一拍とか半拍ずらしてやったらどうなるかと実験を重ねた。
(12)とにかく即興に馴れるようにセッションを繰り返し行い練習した。手探りと一緒に演奏している先輩のプレイを見よう見まねしていた。
表9は、「即興演奏のために行った努力」についてのデータである。表2のデータと重複する部分もあるが、即興演奏はジャズ・ミュージシャンの専門性のなかでもっとも特徴的なものであり、専門性が内在化される過程が考察できるのではないかと考え、データを作成した。
(1)、(6)、(9)は、特に努力はしていないという認識で、(6)には「即興演奏は努力してできるようになったり、できるようになったと判断するようなことではない」という意見がある。一方で(9)のように「習慣的にしていたことで努力と感じていない」という意見もある。
努力の内容としては、記憶、理論の習得(2)、(4)、(7)、聴く(4)、(5)、(10)、コピーによる演奏と練習の反復(3)、(5)、(7)、(10)、(11)、(12)、身体で覚える、身体に馴染ます(5)、(8)、人の演奏を受け入れる努力(4)などが挙げられており、「思考」、「知覚」、「身体運動」の領域が連動して内在化に関与していることがみてとれる。そしてこれらの努力の基には表4で考察したモチベーションがあると考えられ、そうであるならば「情感」の領域も連動していることになる。
多領域の連動によって専門性が内在化されるというのは、多くの専門分野に共通することかもしれない。しかしそれが多義的で不確実性に満ちた即興を行なうためになされる分野はそう多くはないだろう。
ジャズにおいて、そして精神分析において、なぜ、それが行なわれるのかについては、Bollas(1999,p.57)の「(フロイトは)精神の真実が自ずと現れるのは、あらかじめ準備をせずに話をすることによってのみであるということを十分に承知していた」という言葉に回答の一端が含まれていると考える。それは、あらかじめ準備をせずに表出されたことの中に真実があったとして、それを本人もしくは聴く人が真実であると了解できるのは、専門性に裏付けられた枠組があればこそではないか、ということである。
分析家とジャズ・ミュージシャンは、「場」において準備されていないものを表出するために、またそれに応答するために、専門性の蓄積という準備をするのだと考えられる。そして即興を実践するためには、多次元的認識が必要になる。(11)の「覚えたものを1拍とか半拍ずらしてやったらどうなるかと実験を重ねた」はそのための努力の一つと考えられる。なぜならば、「覚えたもの」を権威とすれば、ずらすことは権威から離れることであり、それによって多義性と不確実性に満ちた多次元的空間が認識されるからだ。
この認識は、おそらく分析家とジャズ・ミュージシャンに共有するものであり、両者の専門性に裏付けられた枠組のなかでも重要なことと考える。
なお多次元的空間とは、基本的に「3次元の空間に第4次元として時間を加えた4次元の時間・空間的連続体」(時空世界 - 広辞苑)を想定しているが、個人によって別の次元が認識されることも考えられるので定義づけは行なわない。
表10:一つの表現様式にとらわれず、多彩な変奏をする能力は天性の素質か、経験で得たものか
(1)変奏も一つの表現様式にのっとって行なわれる。様式があるから破綻せずに瞬時の演奏ができる。様式感は親しんできたことによって身につき、演奏経験によって磨かれてきた。
(2)多彩な演奏はできないが一つの様式にとらわれている感触もない。自分と言う様式だけをその場にさらけだしているようなもの。
(3)個人のスタイルはオリジナルなもので、多彩という言い方はよくない。変奏をスムーズに実現するには、そういう表現をしたいという意識と経験を蓄積していくしかない。
(4)経験の中で身についたものと思う。セッション、即興演奏の経験は勿論、それ以前からの音楽的経験も土台になっている。
(5)経験。
(6)残念ながらそのような能力は自分にはない。
(7)なにかを造ること、人となにか違ったことは、子どもの頃から好きだった。
(8)全て経験のなかで身についたものと思う。
(9)経験も重要だが、これこそセンスである。
(10)元々素質があったかどうかは自分ではわからない。どうやったらわかるのか。
(11)経験がほとんどと感じる。
(12)経験。
(13)経験の中で身につけた。
(14)経験の中。
表10はジャズ・ミュージシャンが「自身のアドリブ能力を天性の素質と捉えているか経験で得たものと捉えているか」についてのデータである。
全体として経験で得たものが大きいという認識が多かった。(1)の「変奏も一つの表現様式にのっとって行なう。様式があるから破綻せずに瞬時の演奏ができる」、(2)の「自分と言う様式だけをその場にさらしているようなもの」、(3)の「変奏をスムーズに実現するには、そういう表現をしたいという意識と経験を蓄積していくしかない」、という意見からは、個人としての独自性と統一感を大切にする傾向が感じられる。
多次元的空間は、アドリブの素材が蓄積されている内的枠組と意識のあいだに疎通があることによって認識されると考えられるが、(3)の「意識と経験」という言葉はそうした意味合いを含んでいるように受け取れる。また質問文の「多彩な変奏」は「意外性に満ちたたくさんのアドリブ」の意味で用いたが、「オリジナリティなき多彩さ」ともとれる言葉であり、それが(3)の「多彩という言い方はよくない」との指摘に結びついたのではないかと考える。
表2の「即興の源」、表9の「即興のための努力」のデータにも「経験」という言葉が多くみられたが、無意識的枠組に蓄積された経験を重視するということは、自ら築いてきた枠組に信をおいてなければ出来ないことであると考える。
表11:演奏中に「思考」「知覚」「情感」「運動」をバランスよく機能させることと、会心の演奏の間に相関関係はあると思うか
(1)演奏者自身が感じる会心の演奏ということなら関係があると思うが、何かのバランスを欠いていても最上、最高の演奏になることがある。
(2)覚醒状態、訓練された肉体、深い知性、何かを成し遂げようとする意志、感情が一致した瞬間の快感、スポーツで言えば「ボールが止まって見えた」ような冷静かつスリリングな瞬間は経験したことがある。
(3)冷静な精神状態が保たれて幅広い思考が可能になり、鋭敏な知覚を駆使することができ、演奏に情感を込めることができ、正常かつ奇跡的な運動能力の発揮が可能になる。
(4)相関関係どころか、これが演奏能力の本質と思う。場数を踏むうちに「考えて反応する」から「反射する」領域に近づく。それは「演奏をこうした」という感じから「演奏してみたらこうなった」に近づくことである。
(5)意識したことはないが、これらがバランスよく機能した時によい演奏につながると思う。逆にこれらのエレメントが欠けた時に陥りそうな演奏の状態も想像できる。
(6)あると思う。
(7)ある。
(8)あると思う。
(9)バランスよく機能されている状態の時にこそ会心の演奏が生まれる。
(10)あまり関係ないのでは。会心の演奏になるには別の要因があるような気がする。
(11)あると思う。さまざまな要素の調和・統合は不可欠。
(12)いい日もあれば悪い日もある、というだけの話。
(13)大いに関係あると思う。それらとその場の空気や機運が一致した時に初めて会心の演奏が生まれる。
表11は「多領域の連動と会心の演奏の相関関係」についてのデータである。
表9の考察で、専門性の内在化が多領域の連動によってなされると述べたが、ここでは即興演奏の際の多領域の連動と、演奏者自身に‘真実性'や‘実感'をもたらすような演奏のあいだの関係性が考察の対象である。
これについて13件中11件が「相関関係がある」という意見であった。(4)には「相関関係どころか、これが演奏能力の本質であり、場数を踏むうちに‘考えて反応する'から‘反射する'領域に近づく」とあるが、これは意識のコントロールを脱することを意味していると考える。また(11)は「さまざまな要素の調和・統合は不可欠」という意見であるが、これは個人の枠組のなかで多領域が調和し、全体として統合されていることが、‘真実性'や‘実感'を体験するうえで重要ということであろう。そして(9)も多領域がバランスよく機能することを会心の演奏の条件としている。(2)(3)では会心の演奏が「覚醒状態」、「冷静な精神状態」のもとでなされると述べられているが、これは「幻想」や「万能感」に支配されてはいない状態であり、Knoblauchのいう、「万能感」と相対する状態、すなわち自己との対話ができていることを示していると考える。
(13)は「(多領域がバランスよく機能することに加えて)場の空気や機運が一致したときに初めて会心の演奏が生まれる」という意見であるが、これは外的要因を含めた見解である。空気や機運は演奏者の外にあって、かつ内的状況と相互に影響しあうものであり、‘真実性'や‘実感'の体験を考察するにあたって考慮すべき要因と考える。(1)の「バランスを欠いていても最上、最高の演奏になることがある」と、(10)の「会心の演奏になるには別の要因があるような気がする」という意見は、(13)と同様、外的要因を示唆していると推察する。
以上のことをまとめると、個人の枠組でみれば、多領域がバランスよく機能することは‘真実性'や‘実感'を伴う体験に深く関係すると考えられるが、他者の存在を含む「即興の場」の枠組でみる場合には、空気や機運などその他の要因に影響されるので、相関関係はいちがいに判断できない、ということであると考える。したがって(12)の「いい日もあれば悪い日もあるというだけの話」という意見は、一つの見識といえるだろう。
次に自由意見の中から、即興演奏の多次元性、多領域性に関する意見を抽出したデータを提示する。
表12:多次元性、多領域性についての自由意見
(1)音楽的アイディアの淀みない流出は誰でも学べば可能。しかし流出をセーブできるのはセンスを伴うベテランである。
(2)ハーモニーの中で自分が「スウィングするフレーズ」を発する快感はなにものにも代え難い。
(3)連動について↓「楽器」と「自分」が助け合いながら美しい音楽を作り上げる、そんな単なる道具を「使う」という次元を超えたモノとのコミュニケーションがジャズを演奏する楽しさ。
(4)他の音楽ジャンルにも多元性・多領域性はあると思うが、ジャズではHere and Nowの影響するところがはるかに大きい。
(5)ビル・エヴァンスの修練を決して怠らないという姿勢こそ本質に対するあくなき探究心と考える。ただしこれを実現するには獰猛な欲求を根拠にしたずばぬけた集中力が必要。
(6)ライヴでの演奏は、その空間のなかでどれだけ自分の感覚が開けているかによって左右される。
(7)自分が客席にいる意識を持ち、7割は熱く3割はクールに演奏したい。
資料A:「ビル・エヴァンスは、自分がこれからよいものを出せるという見込みも皆目なしでバンドスタンドに向かうような、よくよくときめかない仕事の時でも、日頃の修練の賜物として、いかに自分の頭と手足を連動させるかという心得があれば、それが難なく後を引き受け、音楽的アイデアの淀みない流出を可能にする、いや引き起こすことすらあるだろうと語っている」( Martin Williams,1985)
表12のデータはいずれも「個人の枠組」の中で多次元性、多領域性について述べたものである。資料Aは質問紙のなかで多領域性という言葉を説明する際に書き添えたものであるが、(1)(5)はこの資料に対する意見であり、(1)の「(音楽的アイデアの流出を)セーブできるのはセンスを伴うベテラン」というのは、即興の多次元的広がりを、スリリングでありながら崩壊には至らない、ぎりぎりのところで抑え、結果として枠組のなかにおさめるといった手腕のことを示していると考える。
(5)の「修練を怠らず本質を探究し続けるには、獰猛な欲求を根拠にしたずばぬけた集中力が必要」という言葉は、「何をどのようにせよ」という指標が存在しない即興という営みの困難さを表していると考える。これは精神分析の営みに通じるものであり、Bollas(1999,p.57)は、精神分析を実践してゆく際の核心にあるのは、注意を集中させる一方で意図を捨て去る、という驚くような目的の対立である、と言っている。
(2)の「ハーモニーのなかで自分がスウィングするフレーズを発する快感」は、全体のハーモニーという多次元的世界のなかで自分が活力(スウィング)を生みだし、存在を確認できることの快感であると思われる。(3)は、楽器を、モノという次元をこえたコミュニケーションの相手としているが、即興演奏における個人内のコミュニケーションの回路が増えることは、即興の展開を面白くする要素といえるだろう。
(6)の「ライヴでの演奏は、その空間のなかでどれだけ自分の感覚が開けているかによって左右される」は、先行研究概要(p.18)で述べた「可能性に対して開けていること」を意味していると考える。ミュージシャンは即興の場において、次に出す音の選択肢を無数に持っている。主として経験によって内的枠組に蓄積されたものである。しかしあれこれ選んでいる時間はない。瞬時に何かを選び取るのは意識ではなくセンスのなせるわざである。そのために、感覚を可能性に対して広げ、研ぎ澄ませておかなければならない。(5)がいう「ずばぬけた集中力」とは、そのことを意味していると考える。
Charlie Parker(アルトサックス奏者)は場の雰囲気や場で起きたことに「瞬時に反応する心fast mind」を持っており、例えば美女が現れたり、観客がおかしな行動をとったりした時、それに対する自分の反応を即座にフレーズにとりいれて表現したという(Berliner,p.469)。またCalvin Hill(ベーシスト)は「ジャズについてよく知らない頃、ミュージシャンはアドリブの時、同じ空気のなかで、どうやってあんな音を捕まえるんだろうって思っていた。まるで魔法のような気がしていた」(Berliner,1994.p.1)と述べている。
表9から表12では、ジャズ・ミュージシャンが自己のなかで体験していることについて考察した。考察結果から、自発的即興が生起している時の演奏者の体験を一つのモデルとして提示すると、内在化された自らの専門的枠組に信をおき、意識と無意識の疎通によって多次元性を認識し、「思考」「知覚」「情感」「運動」がバランスよく機能することによって真実性と実感を体験しているということになる。このことは、即興の場において、ミュージシャンは自立した自己をもっているということの説明になると考える。
表13:複数のミュージシャンがそれぞれ主体的に演奏することによって時間的なズレが生じた時、それをどのように体験しているか。
(1)時間的なズレはある意味スウィング感の源。拡大して表現すればプラスのフィーリングに転化するだろう。
(2)間違っている人、もしくはレベルの初歩の人に合わせる。
(3)リズムと構成が明確な場合は、誰かが主体的なタイムをキープしていれば修正可能。但し演奏者が互いに音楽として合わせる耳と態度を持っていなければならない。
(4)当然上手くいっている、いくだろうと思えると気持がいいが、てんぱっていると不安になる。フロントの立場では前者、リズム担当の時は後者になることが多い。
(5)質問の意図がよく理解できない。
(6)刺激として意識している。メンバー全員が共有しているバンド全体の時間軸と自分が今、出す時間軸の関係が刺激となり創造への源になっている。
(7)理解した上での意図的な「あとノリ」と感じられるものに関しては、ほど良い緊張感が生まれて気持いいと感じるが、各自が自分の演奏に没頭しすぎて生じたズレは前に進んでいるのに後ろに進んでいるような気持悪さを感じる。
(8)崖っぷちを歩いているようなスリリングな緊張感がある。気持ちよいかどうかはその時による。不安でしようがない時もある。
(9)人間の強さみたいなものを感じる。
(10)ずれることは発展がはじまる契機で演奏の面白味のかなり大きな部分。一方で崩壊につながる契機でもある。どうなるかは共演者がどの程度のズレまでを「遊び」としてコントロールできるかをどれだけ正確に把握しているかに依存する。
(11)タイムがキープできずにリズムをはずすことがしょっちゅうでズレはほとほと嫌になる。
(12)時間的なズレを感じないから気持いい。(上手い、下手が伴う)
(13)(ズレについて)聴く能力が重要。共演者の気持に同化して「聴く」からさらに進んで共演者の瞬間瞬間の気持を「なぞる」といえるほどになれば優秀な演奏者になれるのでは。「クライエント中心療法」に似ている。
28ページで述べたように自己と他者の違いはしばしば不調和や差異(ズレ)として認識され、対象との関係は、その対象の境界を知ることによって生じる。そしてOgden(1986,p.168)は「意味は差異から生まれる。完全に均質な場においては、意味はありえない」と述べている。
それでは共演者とのあいだに時間的ズレが生じた時、ミュージシャンはそれをどのように体験しているのだろうか。ネガティヴに捉える意見は1件(11)で、(2)(3)は「合わせる」「条件が整っていれば修正可能」とニュートラルな捉え方。(4)(7)(8)は「気持いい」と感じるズレと「気持悪い」「不安」と感じるズレの両方があるとの意見であり、(10)は「ずれることは発展の契機だが一方で崩壊につながる契機でもあり、どうなるかは共演者がどの程度のズレまでを‘遊び'としてコントロールできるかによる」という。そうした状況を(8)は「崖っぷちを歩いているようなスリリングな緊張感」と表現している。
発展か崩壊かの瀬戸際でズレを楽しむというのは、表5-(8)の「ジャズは枠組を離れてまた戻ってくるゲーム」の意見と同様、ジャズが持つ「遊び」の部分を表しているのではないかと考える。(12)は、ズレが生じたら「共演者の気持に同化して聴く。瞬間瞬間の気持をなぞることができたら優秀な演奏者。クライエント中心療法に似ている」との意見である。筆者は専門ではないのでわからないが、わかる人にとっては興味のある指摘だろう。
また(1)の「時間的なズレはスウィング感の源」、(6)の「全体の時間軸と自分が今出す時間軸の関係が刺激になる」、(12)の「時間的なズレを感じないから気持いい(上手い下手をともなう)」というのは、ジャズに特徴的な時間の捉え方に関係する意見と考える。
「Thinking in Jazz」(Berliner,1994.p.245)には次のようなコメントがある。「どんなに複雑なリズムでも機械で測ったように正確で堅苦しかったら誰もスウィングできない」(Paul Wertico,drums)、「規則正しく正確なテンポのとり方があるが、それでは、ダンスをしたいと思わないし、身体を動かしたくならないし、演奏する気にならない」(Fred Heasch,piano)。
またBelgrad,D(1998)は「ビ・バップに固有の価値観や姿勢は、時間どおり(on time)であるよりも、時間に間に合わせる(in time)ことの方が大切にされるアフリカの伝統的な時間の概念に関係している」と述べている。それはズレを容認し、あらかじめ決めておくにせよ、その場で目配せするにせよ、どこかで合わせればいい、という認識であろう。
表5-(15)の例のように各演奏者が枠組を逸脱していてもコーラスの頭だけはぴたりと合う、というのは(6)にあるように、自己のなかに、自分の時間軸と全体の時間軸が多重的に存在していて、一つにズレが生じても崩壊にはつながらないという認識があるからできることと考える。(12)は「ズレを感じない」と言うが、これはズレていない時間軸もあるから、という意味にも受け取れる。
表14のデータでは、体験のしかたはさまざまであるが、ほとんどのケースでズレが認識されていることがわかった。自己と他者の境界の認識についてさらに考察するため、もう一つのデータを提示する。
表14:共演者のリズムやフレージングに「つられそうになる」「ひきずられそうになる」といった経験がありますか。そんな時、どうしますか。
(1)素直に従い、それからまた発展させる。
(2)ある。それはそれでよいと思う。
(3)ある。場合によって「一時的に音を出すのをやめる」「相手に合わせる」「自分のタイムに合わさせる」等の対応をする。
(4)多々ある。それが生きたものかそうでないものかによって先が違う。自分のレベルによっても大きく違ってくる。
(5)ある。愛をもって受け入れる。
(6)共演者の意図的でない演奏にひきずられそうになり全体の演奏の破綻が予測できた場合は矯正の努力をするか、演奏を離脱する。共演者が意図的である場合は喜んでひきずられる。ジャズの演奏はいつの瞬間も後者を望んでいると思う。
(7)自分がしっかりしていればつられる事はあまりないが、あえてつられる事によって全体のサウンドが引き締まるならそちらをとることもある。誰でも多少のフレキシビリティをもって演奏している。
(8)フレーズは思い切ってつられてみて掛け合いを楽しむことが多い。相手がそれに乗ってこなければ元に戻るだけ。リズムでつられたと思ったら押しには巻き、巻きには押しで、なんとか戻そうとする。
(9)「つられそうになる」「ひきずられそうになる」というと悪いことのようだが、共演者の出した音にInspireされることはしばしばある。リズムがずれた場合は合わせるようにするがフレージングの場合は積極的につられることが結構ある。
(10)演奏は相互理解と救いあい。つられる、わからなくなる、ずれる、というような一見よくないとされる状況もうまく処理すれば面白い展開になるので、自分のコントロールできる範囲内であれば、安定している状況とさほど違わない。
(11)ある。修正しようという意識が働くが修正は最小限にする。あるがままにしておくことも重要と考えている。
(12)ある。自分は合わせるようにする。
(13)しょっちゅうある。気づけば相手にあわせる。気づかない時はたいてい自分が他人をひきずりこんでいる。
(14)自己主張の強いインパクトのあるリズムやフレージングにはひきずられやすい。間や場面に即したものであればあえてつられるがズレや歪みを生じる恐れがある時は聴かないようにしたり自分の演奏に集中する。
(15)「共演者が音を出すときの気持をなぞる」からさらに進み「共演者、聴衆が瞬間瞬間に各々の音や全体の音をどう聴いているか」までも同化して聴き取り、察する能力が高ければ優れたプレーヤーと言える。
表14は、共演者とのあいだの差異の認識に葛藤的状況が加わった場合の対応についてのデータである。「つられそうになる」「ひきずられそうになる」という経験については、(14)件すべてが「ある」という答だった。そして約半数(1)、(2)、(3)、(5)、(11)、(12)、(13)が「合わせる」「受け入れる」「あるがままにしておくことも重要」といった中立的対応をとるという意見だった。また(6)、(7)、(8)、(14)は、場に応じて積極的につられたり、ひきずられたりすることもあるという意見だった。表5では、枠組と即興の葛藤をポジティブに捉える意見が多いと述べたが、ここでも(6)の「相手が意図的な場合は喜んでひきずられる。ジャズの演奏はいつの瞬間もそれを望んでいると思う」に代表されているように、葛藤はおおむねポジティブに捉えられている。(15)は「個々の演奏者だけでなく全体に同化して聴き取り察する能力が高ければ優れたプレーヤーである」というが、全体的には、同化するよりも自分で状況を判断して、つられたり、ひきずられたりするか逆に自分の演奏に集中するかを決めるといった意見が多かった(4)、(6)、(7)、(8)、(9)、(10)、(11)、(14))。
(7)の「誰でも多少のフレキシビリティをもって演奏している」と(10)の「自分のコントロールできる範囲内」は、表13-(10)と同様「遊び」の部分を意味していると考える。
「遊び」については、先行研究概要(p.13)で述べたように、Baderが「真の遊び心に満ちた自発的コミュニケーションによって真実性がもたらされること」の例としてジャズの即興を挙げている。
Winnicott(1971)は、創造的営みとして「遊ぶことplaying」という概念を提示した。Winnicottは「遊ぶことは自発的でなければならないし、決して盲従的であったり、追従的であってはならない」(p.71)と述べている。そして彼は「遊ぶこと」の舞台として可能性空間potential spaceという概念を提示した。精神分析事典によれば、それは「個人の内界と外界のあいだ、空想と現実のあいだに広がる潜在的であるが可能性をはらんだ仮説的な体験領域」である。即興演奏中のジャズ・ミュージシャンは、枠組と葛藤し、他者とのズレを認識し、つられそうになったり、ひきずられそうになったりしながら、どこかで遊びの部分を保ち、それらを面白い、スリリングなこととして体験しているようである。これは「可能性空間で遊ぶこと」のメタファーになり得るのではないかと考える。しかし現時点ではまだ、このことについて説得力のある論述を行なうことはできない。
表13と表14のデータからは、ジャズ・ミュージシャンが、即興の場において他者との差異を認識し、自己と対話しながらその都度自主的に対応するという姿が考察された。対応は瞬時に自発的に行なわれていると推察されることから、意識的にも無意識的にも、自己と他者の違いが区別されていると考えられる。
Landis,B(1970)は自我境界について「比喩的にいえば、自我という心的領域を取り囲む膜とか壁のようなものである」とした。54ページで述べたようにこの場合の自我は自己と同義であるから、この定義は自己の境界を意味している。データによれば、ジャズ・ミュージシャンは他者とのズレや葛藤に対して、主体性を保ちつつも柔軟に対応していると考えられるので、あくまで比喩であるが、境界は壁というよりも膜に近いといえるのかもしれない。あるいは、上記の「可能性空間」の概念によれば、境界は区切りではなく、自己の内界と外界が重なりあう部分に、「遊ぶこと」ができ、双方の領域がそれを超えて相手側に侵入することはないという中間領域が体験されるという捉え方ができると考える。
表14は境界の認識と関係性についての考察であった。
次はコミュニケーションについて考察する。
表15:演奏の際、コミュニケーションに関して苦労した経験は?
(1)下手な人との間ではコミュニケーションが成立せずつらいことがあるが、それを出したらバンド全体から良い演奏をしようとする姿勢が失われるので、よくよく聴いて救おうとする。逆に上手い人とやっていて、自分がそう思われていると感じることもあるが、こちらの方がつらい。
(2)会話がなくても演奏上コミュニケーションがとれ、すばらしい演奏になることはよくある。閉ざされた関係は駄目。馴れ合いの仲もなかなかよい音は生まれない。一番大切なのは自分の精神状態。対人そして対自分。
(3)伝達言語に共通性があれば、目配せ、身振り手振り、音そのものでコミュニケートできる。より高度なコミュニケーションとなると、演奏者のあいだに霊感に近いものが現れる。その体験とは日常人間社会では起こりえないものである。
(4)ソロをとっていて、ある程度は熱くならなければいけないが、周りの音が聴けるくらい冷静になってコミュニケーションを図ろうという苦労はいつもしていた。
(5)演奏相手がこちらの演奏を聴いていない、もしくは聴く余裕がない時、こちらが相手の演奏を聴いていない、もしくは聴く余裕がない時。そうなってしまうとどうしようもない。
(6)バンド全体で動的な構成がとれない時、創造へのパワーが出なくなり、やる気がそがれる。時間に対する感性が違うメンバーがいる時などに起こる。
(7)ない。ただ、よくメンバーの音を聴き、何を主張しているか、解るよう努力をしている。
(8)「愛」をもって受け入れる。
(9)本質的なリズム感が違うと演奏していてもしっくりこない。そういう場合はたいがい相手もそう思っている。
(10)そういう時は終わったあとの打ち上げの楽しさを考えるようにする。
(11)互いの演奏スタイルを探り当てるまでにはそれなりの食い違いがある。全くスタイルが違うと難しい。
(12)全くリズムが合わない人もいるがやりすごすしかない。自分の力量不足ということもある。これらは言葉ではなく音でやりとりされてほぼ一瞬でわかる。
(13)応答や呼応を求めたり関わりを期待する場面で自分の演奏に集中しすぎたり周囲の空気を読まない奏者とのセッションでは、音楽の広がりの限界を感じる。
(14)自分だけが正しいと音楽で主張して誇示するのは大人気ないと思う。会話と同じ。
(15)絶対に人に合わせそうにないメンバーの場合はその人に合わせる。人格円満なので。リズムがズレた時、相手が格上だったら多分こっちが間違えたんだろうと納得する。
精神分析的心理療法とモダンジャズの「自発的即興が生起する場」において特徴的なコミュニケーションのありかたは、意識と無意識の疎通によって自己との対話がなされ、同時に他者との即時的応答が行なわれることである。これは一般的なコミュニケーションのありかたからみると特異であるといえよう。
Belgrad,D(1998)はビ・バップの文化的スタンスについて書かれた文のなかで「ビ・バップにおけるコミュニケーション能力と間主観性の復権は、主流の文化における客観的、合理的視点とは相対するものであった」と述べている。
28ページで記述したように、「即興の場」には、他にもさまざまなコミュニケーションが存在する。無意識への回路が開かれていることで、時間や空間の感じ方も多次元的になる。
そのような「場」において、ミュージシャンはコミュニケーションをどう体験しているのか。質問紙調査では、「苦労した経験」をたずねた。
データを見ると、コミュニケーションに障害をもたらす要因として「リズムが合わない」(9)、(12)、(15)、「演奏者としての技量の違い(自分が上の場合も下の場合も)」(1)、(12)、(15)、「スタイルの違い」(11)、「演奏を聴いていないもしくは聴く余裕がない演奏相手」(5)、「時間に対する完成が違うメンバー」(6)、「空気を読まない奏者」(13)、「自分だけが正しいと音楽で主張する奏者」((14))、「絶対に人に合わせそうにないメンバー」(15)が挙げられた。そのことによって何が困るかについては「音楽の広がりの限界を感じる」(13)、「動的な構成がとれない」(6)、「バンド全体から良い演奏をしようとする姿勢が失われる」(1)などが挙げられ、可能性に対して開かれた状態が阻害されることが問題と考えられる。
一方で「閉ざされた関係が駄目」とする(2)は「馴れ合いの仲もなかなかよい音は生まれない。一番大切なのは自分の精神状態、対人そして対自分」ともいう。基本にはやはり「自己との対話」がある。
ここで語られているのは無意識との回路が通じている状態で、非言語的コミュニケーションがなされる時、何を障害と感じるかということであり、日常のコミュニケーションの問題とは様相が異なる。その意味で貴重なデータといえるだろう。
Knoblauch(2000)は、非言語的コミュニケーションは双方向的と述べているが、(1)の「自分がそう思われていると感じることもある」、(9)の「たいがい相手もそう思っている」、(15)の「相手が格上だったら多分こっちがまちがえたんだろうと納得する」、そして前述の(2)の「対自分」といった意見からは、相手に何かを感じたら、それに照らし合わせて自らの内省もおこなう、という双方向性がうかがえる。
(3)には「伝達言語に共通性があれば目配せ、身振り手振り、音そのものでコミュニケートできる」、(12)には「これらは言葉ではなく、音でやりとりされてほぼ一瞬でわかる」とあり、ミュージシャンが多様なコミュニケーション・チャンネルを使って対話をしていることが推察できる。
コミュニケーションの回路が多次元的に存在し、双方向的やりとりが行われていることから、「即興が生起する場」は、開かれたコミュニケーション・スタイルによって特徴づけられていると考えられる。
表16:演奏が佳境に入った時、ミュージシャンとミュージシャンのあいだに別の何かが現れたように感じる、といった経験をされたことがありますか?
(1)同じ方向へ進もうとしていることを感じる。自然に。佳境はエゴかもしれない。
(2)ピアノ奏者がこちらの出した単音に何倍もの音を共鳴させて美しさを増してくれる。リズム、スウィング感においてはベースの役割が大きい。
(3)自分達はこんなに息の合う演奏ができたんだ、と思うことがたまにあるが、別の何かが現れたのかどうかはわからない。
(4)ない。
(5)まったく打ち合わせなしに、あるイメージを創るために同じ目的に向かって集中している状態は経験する。決して同じ考え方でいるわけではないが。
(6)演奏の始めと比べてメンバー全員の一体感を覚えるように感じる。若干ではあるがお互いの反応のパターンがある程度予測でき、アクションや仕掛けの割合が増えるように思う。
(7)演奏が佳境に入ってくると緊張感、集中、エネルギーがほとばしり出るような感じがあるが、これは曲の頭から続いている脈絡の中でそれが膨らんでくるようなイメージで「別の何か」ではない。
(8)好きな人が歌っている時に間奏で目があった。時間が止まったように感じた。
(9)「救いあい」が失敗に近づく状態から引き戻すというレベルではなく、共演者が出している音をよりよく聴こえるようにする「高めあい」になっている時、その場の空間を支配している気分になる。
(10)一流のミュージシャンの演奏を聴いている時、目の前に建築物が立ち上がるような感覚におそわれたことがある。素晴らしい演奏は「見える」ものだと思う。
(11)「おどろき」や「ぐうぜん」。ハプニング。
表16は「即興が生起する場におけるあいだの空間の体験」の考察である。複数の演奏者が主体的に演奏し、意識・無意識の両レベルで多次元的コミュニケーションを行なっている時、そのあいだの空間には、何があるのだろうか。コミュニケーションの見えない線が錯綜しているだけなのか、それとも何かが存在するのか。これは現代の精神分析において重要なテーマである間主観(体)性に関連する質問である。
66ページの表(14)-(3)に該当すると考えられる以下の記述がある。「より高度なコミュニケーションとなると演奏者のあいだに霊感に近いものが現れる。その体験とは日常人間社会では起こりえない、(おそらく時間芸術と宗教と性行為の中だけにしか起こりえないものである)」(括弧内は表(14)では省略)
表16のデータでは、11件のうち9件で「何かが現れたように感じる」体験をしており、(10)には「目の前に建築物が立ち上がるような感覚におそわれたことがある。素晴らしい演奏は‘見える'ものだと思う」とある。
(1)、(2)、(3)、(5)、(6)、(7)、(9)では演奏が佳境にはいった(と感じられる)時、「メンバーとの一体感を覚える」「同じ方向に進んでいる感じ」など、メンバーと何かを共有している感覚がポジティブな体験として語られている。個への没入が進んでいる時に、他者と何かを共有している感覚が同時進行的に起こるということは、無意識のレベルが関わった多次元的体験と考えられる。(5)に「決して同じ考えでいるわけではない」とあるが、これは意識レベルにおける意図は同じではないが、無意識のレベルでつながっているという意味と考える。30ページで述べたようにあいだの空間がからっぽであったり、拒絶的であったりせず、そこに無意識的受容性があるために、個としての即興が孤立せず、何かを共有しているという体験が生まれると考える。
精神分析においても、分析の過程で分析家と被分析者のあいだに別の何かが現れ体験されるという概念がある。それはOgden(1992,1994)によって提示された「分析的第三者analytic third」であり「分析家と被分析者が参与し、共同的ではあるが非対称的に構築され体験される、一連の意識的および無意識的な間主体的体験」(1997.p.71)を意味する。
あいだの空間に分析的第三者が構築されるには、分析家と被分析者がプライバシーを保持し、もの想いの状態にあることが条件であるという。分析的ペアはそれぞれが、分析的第三者と弁証法的緊張状態にあり、分析家はそれへの参与を通して、被分析者の無意識的生活を探索する。そして被分析者の無意識の「漂い」を感受するために分析家は自らの無意識を役立てる訓練と体験を使う(Ogden,1997.p.70,p.98)。
この分析的第三者の概念と、上記データにあるジャズの即興演奏の場で演奏者のあいだに何かが現れるという体験のあいだに、類推を可能にするような類似性はあるだろうか。そのことを考察する。
即興が佳境に入った時のミュージシャンは、没我に近い境地で自己と対話をしているのであるから、プライバシーは保持され、もの想いの状態が現出していると考えられる。同時に共演者と共同的に創造を行なっている。弁証法的緊張関係については、データから検証するのは困難だが、芸術的創造が行なわれ、ポジティブな体験として記憶されているのであるから、力動的緊張はあったと考えられる。表(14)-(3)のように「霊感に近いものが現れる」体験においては、その対象とのあいだに創造と保存と否定の弁証法的関係がおそらくあったのだろうと推察される。分析者と被分析者の関係の非対称性については、ソロ奏者と伴奏者の関係にそのまま置き換えることはできないが、応答する伴奏者は、(演奏の枠組の範囲内で)、ソロ奏者の無意識的イメージを探索しているものと考えられる。少なくとも互いに無意識を通じて感応し、応答しあっているということは言えると考える。
以上の考察から、類似性は認められると考える。しかしこれを精神分析とジャズの類似性を説明するメタファーとして用いようとするならば、さらにデータを収集して検討を加え論旨を精緻化しなければならないと考える。
また、ジャズの即興演奏の場においては、共演者のあいだに仮説Iで考察した「共有の枠組」が存在する。これと演奏が佳境に入ったときに現れる「何か」は、別のものではなく、即興が展開することによって個々の演奏者と枠組のあいだの力動的緊張が強まり、枠組がにわかに存在感を増して、新たに出現したように体験される、という捉え方もできると考える。
しかし、このことについては、データからは検討できない。
表17:ジャズにおける「あいだの空間」とはどのようなものか
(1)音を切る、音をのばす、音の連鎖をつくるのは、全ての音楽家が実践している。すべていいかえれば音と音の間の空間のこと。
(2)ジャズの基本的な奏法を理解したあいだで、考えてることは違ってもある音の空間を作るために、瞬間的に目的に向かってお互い集中できること。
(3)演奏者の特性、性質は、バックボーン、能力、世界観によって共振度合が異なる。その「あいだ」が数少ない共通項を探りあい、演奏を成立させる程度の空間の時もあれば、神がかった共振を呼び、奇跡的な演奏を誘発することもある。
(4)空間のない音楽などあり得ない。空間が自分の発する音の存在を意味づけする。空間の演出は修練の上の最後の課題。しかし、これはあまりに微妙で説明できない。
(5)ソロ奏者に共演者が合いの手をいれる時、ぴったりと感じたり、若干のズレが心地よかったりするのは相手と適度な空間があるからだろう。奏者や聴衆によって受け取る印象が違うのも「あいだの空間」効果か。
(6)「あいだの空間」はすべての本質であると考える。(ジャズ、もしくは音楽という範囲のことではなく)
(7)音楽は音と音とのあいだの空間であるというのはゆるぎない事実。自分の出している音に意識がいき、本質である空間への意識が乏しくなってしまうことがあるが、本質を見据えている表現者の表現行為は素晴らしいと思う。
(8)一般的にはスムーズに事が運ぶさまを「テンポ」と言うが、音楽においてはあくまでも曲の速さ。その速さにより「あいだの空間」も生じる。
(9)最初に思いつくのは音と音のあいだ、つまり無音のところ。楽器演奏ではなく歌うときはお客様との「あいだ」を強く意識する。
(10)音が生じていないだけで演奏・音楽の延長と同じ。しかし音がない分、緊張感や意識は高い密度で凝縮された空間。音がないという関わり。
(11)音の無い時間、聴こえない時間が音楽だと思う。
(12)音楽は音と音との空間であるので、決められた音を弾くスタイルのジャンルか、アドリブのように決められていない音を弾くスタイルのジャンルかを意識することには意味を感じない。どちらにしろ本質は、演奏者によって弾かれた音そのものではなく、その間の空間なのだから。
表17は「音楽におけるあいだの空間」についての自由意見のデータである。12件中7件(1)、(7)、(8)、(9)、(10)、(11)、(12)が「音と音のあいだの空間」すなわち時間的空間についての意見であり、(4)、(5)、(9)が場における空間、(2)、(3)は心理的空間についての意見だった。
音と音のあいだの空間については、(6)は「あいだの空間は、音楽に限らずすべての本質」といい、(12)は「音楽のジャンルに関係なく本質は演奏者によって弾かれた音そのものではなく、その間の空間なのだから」、(7)は「音楽は音と音のあいだの空間というのはゆるぎない事実」(1)は「すべての音楽家が実践している音を切る、のばす、音の連鎖をつくる、はすべて音と音のあいだの空間のこと」、(14)は「音の無い時間、聴こえない時間が音楽だと思う」、(10)は「音がない分、緊張感や意識は高い密度で凝縮された空間」
と、音そのものよりもあいだの空間を重要視する意見が並んでいる。
この「あいだの空間」については、木村(1988)によるすぐれた記述がある。
「……音と音のあいだの音のない空白、これを普通は‘間'と呼ぶのだが、生きた音楽においては、これは決して単なる沈黙ではない。‘間'のすぐ次にくる音が生きた音になるのも死んだ音になるのも、演奏者が‘間'それ自身の演奏者に伝える指示を的確にキャッチしてこれを実現するかしないかにかかっている…中略…生きた音はそれ自身の内部から豊かな沈黙を分泌して、それを自らの周囲ににじませる。‘裂帛の気合'とはそういうものである」(p.57,58,59)
木村はまた「合奏が成立するということは、音が合うということより以前に、まず‘間'が合うということなのである」(p.38)という。
木村の記述はクラシック音楽に関するものであるが、「次にくる音」の予測可能性がクラシックよりはるかに低く、合奏を成立させるもとになる共有される楽譜もなく行なわれるジャズの即興演奏においては、生きた音楽をつくるための「間」の重要性は、より切実に感じられるのではないかと考える。(4)の「空間が自分の発する音の存在を意味づけする」は、時間的なあいだ、と空間的なあいだの両方を意味していると考えられるが、(4)は続けて「空間の演出は練習の上の最後の課題。しかしこれはあまりに微妙で説明できない」と述べている。
音と音のあいだの空間については、30ページで引用したようにOgdenが
音楽と精神分析の「場」において類似した意味を持つと述べているが、 「音の存在を意味づけする」ということは、からっぽな空間に孤立して存在する音ではなく、前後の音、そして周囲の空間とつながりがついて、意味をなす、ということであると考えられる。そして、そのためには、やはりあいだの空間の「無意識的受容性」が必要であろう。それは意識的な賞賛や反応ではなく、こころのより深いところで受け入れられるということと考える。
「あいだの空間」の意味とは、多次元的なつながり、すなわち奥行きのあるつながりをもたらし、連続性が体験されることにあるのではないかと考える。
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