序章
【はじめに】
精神分析とジャズは別個の領域に属するものであり、なりたちも全く異なる。しかし、両者は「即興improvisationが重要な役割を果たす」という点において共通性があり、精神分析の領域では、ジャズとの類似性に着目した研究が、主としてアメリカにおいて、さまざまな観点からなされてきた。
1950年代には「イドと超自我の葛藤」「抑圧からの解放」といった古典的精神分析理論の枠組のなかで、ジャズについての説明を試みる研究が行なわれており、1990年代には、自由連想法とジャズの即興演奏の形式的類似性に着目し、枠組としての構造と即興の関係を形式面から論じた研究や、臨床事例のメタファーとしてジャズの即興をとりあげた論文が発表されている。近年では、研究対象が概念的類似性から実践上の類似性へと広がり、2000年にはジャズの要素を取り入れた精神分析的心理療法を実践する研究者が、多くの事例を盛り込んだ本を出版した。
本論文で取り上げた1990年代以降の先行研究の研究者は、すべて精神分析家、精神分析的心理療法家である。研究の動機としては、分析の場とジャズ・ライヴの場が、ともに即興improvisationによって特徴づけられているということに関心を抱き、ジャズを通じての類推が精神分析の理解を深める一助になる、あるいは精神分析を説明するうえでメタファーとしてジャズが使える、さらにはジャズの即興を機能させている要素を分析の場にとり入れることができる、と考えたのではないかと推察される。
こうした研究の積み重ねの結果、精神分析とジャズの類似性についての認識は一定の説得力を持つに至り、2004年にジャズ発祥の地、ニューオーリンズで開催された第43回国際精神分析協会大会において、「精神分析とジャズ」というテーマでパネル・ディスカッションが行なわれた。
即興improvisationという共通項を基点にした精神分析とジャズの相互理解、相互利用の動きは、今はまだ限定的なものであるが、今後、さらに展開する可能性がある。
本研究では、そうした動きの基点となる「場」に焦点を当てる。それは「精神分析的心理療法の場」であり「ジャズの演奏の場」である。そして2つの「場」は「即興improvisationが生起する場」という意味で重なりあう。この「場」において、どのような形式で即興が生起し、何が体験されるのかという視点から、考察を加えたい。
本研究のために、ジャズ・ミュージシャンを対象に質問紙調査を行い、14人から回答を得た。精神分析の領域でなされた先行研究の知見と、ジャズ・ミュージシャンの意見のあいだに、類推を可能にするような類似性が見出されるならば、それは自由連想法や即興演奏について、これまでとは異なる視点をもたらすであろうし、分析の場で起きていることを説明する上で役立つかもしれない。そうしたことを念頭に置きつつ、文献とデータを検討してゆきたいと考える。
小さな一歩であるが、この研究が、日本において「精神分析とジャズの類似性」に対する認識が広まるきっかけになれば幸甚である。
|